[ や行 ら行 わ ]- そば用語の解説一覧 
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焼き海苔 そば屋の酒は「上酒」がきまりであった時代の、伝統的な酒の肴は、なんといっても「焼き海苔」と「板わさ」であろう。東京では分厚い浅草海苔で、炭火の入った海苔箱に収められていた。「板わさ」は厚切りした白い板蒲鉾に本わさびがついている。
  焼畑
焼畑は日本の古くからの伝統的な農耕法で、山間僻地の多い日本の農業にとっては貴重な耕作地であった。地域や地形さらには山の高低や日照条件などによって「春焼き」と「夏焼き」に分けられる場合が多く、焼いた初年目にはそれに適した作物を蒔き、2年目、3年目もそれぞれに適した作物に変えながらおおよそ4年から5年くらいを一区切りとして終える。その後は再び草木のはえるままに放置して自然の山に戻し、地力の回復した10年、20年後再び焼畑として用いるのが一般的である。
  焼畑の作物
      焼畑とソバ
焼畑の代表的な作物をみると穀類(ソバ・アワ・ヒエ・トウキビ)、豆類(大豆・小豆)、根菜(里芋・カライモ・大根・カブ・コンニャク)、さらにミツマタ(和紙の原料)などの多種にわたる。特に、一年目の作物に比較的ソバが多く見受けられるのは特徴的といえる。ソバを蒔くときに、熊本県菊池地方では「灰は熱いうちに種子をおろせ」、中国地方の「竹やぶを焼いた後は灰の熱が冷めないうちに蒔け」、この他にも「ソバは灰が熱くてはぜるうちに蒔け」などという言い伝えが残っている。
  焼畑面積 わが国の農業は水田と畑作のみが重視され、全国の山間各地で行われた焼畑についてほとんど語り伝えられてこなかった。しかし山間僻地に囲まれた日本の焼畑は、近世以前には24万ヘクタールを超えていたともいわれている。その後、明治30年(1897)に森林法が制定され、植林への転換による焼畑地の林地化と新たな火入れの制限が直接の引き金となって、明治・大正時代にかけて衰退の一途をたどり、昭和20年(1945)台には5〜6万ヘクタールまでになって昭和30年頃にほとんど姿を消してしまった。 この時代これと並行して、わが国のソバ作付け面積も減少の一途をたどっている。
  焼き味噌 そば屋の酒の肴。白味噌にカツオ節、丸抜き、炒りごま、葱など入れてよく混ぜたのを、杓文字に塗りつけて包丁を鹿の子に入れて遠火でこんがりと焼け目を付ける。味噌に混ぜるものは柚子、紫蘇、クルミ、などもある。香ばしく焦げた焼き味噌はどの酒にも良く合う。ただ、最近では焼き味噌を出すそば屋は少ない。
  薬王山医王寺・東光院 江戸のそば切り初見となっている「慈性日記」に登場する江戸小伝馬町にあった天台宗の東光院。山号を薬王山といった。江戸の古地図と「文政寺社書上」によると「本堂并堂社寺中八ヶ院」とあって、院内には小院や子院が八ヶ院もあった。慈性たちがそば切りを振舞われた慶長19年(1614)ば、徳川家康が新政権の宗教政策を決めるための御前論議を江戸城本丸で盛んに行ったので、各宗派の僧たちは江戸にとどまっている必要があった。日記からは、天台僧たちの江戸・逗留所は東光院や法性寺であり、そば切り振舞はそれら逗留した寺での出来事であったことが日記から読み取れる。
  薬樹院 滋賀県大津市坂本の天台宗寺院。江戸のそば切り初見である慈性日記の慶長19年2月3日に「常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也」があり、この日、慈性や江戸の東光院・詮長と行動を共にするのが近江・薬樹院の久運である。いずれも天台宗の僧(住職)であった。
  薬味 料理に添えて風味や味を引き立たせる香辛料。麺類ではネギ、大根おろし、七味唐辛子、わさび、などが多く使われる。特にそばには辛味大根が合うとされ、江戸時代の書物には大根は「辛辣のものを用ゆべし」とある他、橘皮(ちんぴ:蜜柑の皮を干したもの)や炙味噌(あぶりみそ)、乾松魚(ほしかつお:華鰹)などもある。
  薬味箱 蕎麦に限らず素麺やうどんも、いく種類もの薬味を使ってその風味や味を楽しむ。これらの薬味類を入れ分けられるのが薬味箱で、麺類屋には、漆塗りをした長方形の木箱をいくつかの舛に仕切っていて、彩りよく薬味類を入れている。薬味箱の中の舛にも匂い移りがしないように小さな器があってそれぞれの薬味を入れるのだが、最近は見かけることが少なくなった。よく見るのは、2〜3種類の薬味を分けてのせる薬味皿はよく見かける。
*歌舞伎の舞台で役に合わせてメイクをするのに「油紅」や「墨」などの化粧品を入れておくのも薬味箱というが、なかには家紋が入ったたいそうなのもあるそうだ。
  屋号 商家や店名につける称号のことで、語尾に「屋」を付ける例が多いが、そば屋には「庵」を付ける場合も多い。そば屋の庵号の始まりは、江戸中期に浅草にあった道光庵という寺の庵主がそば打ちの名手で寺で振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛したという実話がある。その後、道光庵のそばの評判と繁昌振りにあやかろうと店名に庵をつけるそば屋が現れだしたのが発端である。*道光庵の項参照
  野菜蕎麦 宿根ソバのことで、赤地利ソバともいう。日本へは明治の初め頃、中国から薬草として移植され薬草園などで栽培されたが、種子は結実するが脱粒しやすく採取はむつかしい。若葉は食用となることから「野菜蕎麦」ともいう。*宿根ソバの項参照
  やせうま 大分の郷土食。小麦粉を練って手で引き延ばした平たい麺を茹で、キナ粉と砂糖でまぶしたもの。九州では大分や熊本・宮崎、四国では愛媛県今治や宇和島などに、小麦粉を練って手で引き延ばした平たい麺の「手延べだんご」「だごじる(だんご汁)」があり、「包丁汁」と書く場合もある。山梨県を中心とした地域には「ほうとう」があり、岩手県地方の「はっと」「はっとう」などもふくめあきらかに古い形をとどめた一種の麺に発達する過程の食べ物だったとも考えられる。
  屋台 明暦の大火(1657)以降の江戸には煮売りが急増する。貞享3年(1686)の夜売り禁止の町触れにも「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とあって盛んに売り歩かれたことがわかるが、この時代は荷を担いで移動する振売りであった。
屋根をつけ小型の移動店舗のような屋台が現れた年代はわからないが、後の元文(1736〜41)頃には江戸では夜鷹そば、上方では夜鳴うどんが現れているので少なくとも享保年間(1716〜1736)には簡単な屋台が出現していたと考えられる。明治へと時代が移っても、初期の頃は江戸時代と同じ棒手振りの屋台が主流であったが、中頃になると屋台の下に車が付くなど荷車の方へと時代が移って行く。昭和になってからも戦後復興と共に活躍した屋台のルーツである。
  柳田国男 日本を代表する民俗学者。明治8年(1875)〜昭和37年(1962)。多くの研究や著書があるが「粉食」について、「柳田国男の民俗学」では「粉食がハレの食物とされるゆえんは、一つには、その加工に多くの手間がかかり、大量には作れず、しかもその保存に日本の風土は適していなかったために、貴重品であった。」と記している。
  柳はっと そば粉をこねて寝かせ、指で小さくちぎってから平たく押して柳の葉の形にしたもの。これを具にして味噌汁に入れたり、茹でてネギ味噌をつけて食べる。「柳葉」とか「てこすりだんご」ともいう。青森、岩手県周辺のそば料理。
  柳家小さん そばを題材にした落語は多いが、なかでも「時そば」はその代表格で、もともと上方で「刻うどん」として咄されていたのを三代目柳家小さんが東京に移入した演目である。このように上方で話されていた演目が東京に移入された例は多く、「そば清(そばの羽織)」も上方落語の「蛇含草」を三代目桂三木助が東京に移入した演目である。
  藪入りそば 「藪入り」は、わが国に週休や日曜日の制度が無かった江戸時代から昭和の初期までの風習で、商家に奉公に出た子どもは正月16日と盆の16日の二回だけ休みをもらって親元に帰ることができた。子どもの帰りを迎える親にとっても特別な日で慰労にそばなどご馳走を食べさせた。この日にだすそばを藪入りそばといった。
  藪蕎麦 「薮」という名称の興りそのものは江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の近くのやぶのなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」で当初は「薮の内」とも言われたそうだが、名物であったので藪蕎麦を名乗る店があちこちに現れている。江戸・本郷団子坂にあった「蔦屋」もやはり竹藪のなかにあったが、そこの連雀町店を引き継いだのが今の神田・薮蕎麦の堀田七兵衛初代だという。その以前は蔵前で「中砂」という店をやっていて、北池袋にある西念寺の墓石には「大阪屋七兵衛」とあってもともとは大坂の砂場系出身だったという。
  やぶ忠 昭和初期の蕎麦といえば機械打ちが多くなった中で、そば打ちの「名人やぶ忠」といわれた東京滝川中里(北区滝野川町中里)にあった手打ちそば屋「日月庵やぶ忠」の主人・村瀬忠太郎のこと。昭和4年(1929)には佐藤春夫や豊島与志雄、高岸拓川など文人・食通が集まって変わりそばの集いの会合を催し「名人やぶ忠」と称されるようになった。昭和13年に80歳で他界するが、この間、そば打ちの指導に貢献した片倉康雄(足利 一茶庵)、高井吉蔵(山形 萬盛庵)はやぶ忠で修行したという。村瀬忠太郎の口述をもとに高岸拓川によって「蕎麦通」が昭和5年に発行されている。*「村瀬忠太郎」「名人やぶ忠」の項参照
  藪の蕎麦切 享保年間(1716-1735)刊行の「江戸名所百人一首(神社仏閣江戸名所百人一首)」は上句に小倉百人一首の一部を、下句に江戸の名所の名を入れている。雑司谷鬼子母神では藪の蕎麦切を描いている。この店は「蕎麦全書」でも藪の中爺が蕎麦として登場している。
  藪のつゆ 「薮の辛つゆ」ともいって、藪そばのそばつゆはからいとされ、なかでも並木藪蕎麦のつゆはその代表といえる。もっとも、この場合の辛い・甘いは、塩分や糖分の問題ではないし単純に味の濃い・薄いでもないから説明はむつかしい。とはいうものの、やはりひと口に言うと「濃い汁」ということになる。
  ヤマイモ @ヤマイモ(自然薯)つなぎ。そばを打ちやすく切れないように、普通は小麦粉を使うが、小麦が収穫できず入手困難であったり、高価でなかなかそばのつなぎにまで使うことができなかった地域では、かつて日常生活の極く手近にあるものを工夫して「そばのつなぎ」に活用した。地域を問わず各地で見られたのはヤマイモ(自然薯)である。現在でも、鹿児島のそばには自然薯を多く使う。ヤマノイモ(山の芋)は、ヤマイモ(山芋)、自生のものは自然薯という。
Aざるそばのつけ汁(そば汁・辛汁)の代わりにとろろ汁で食べる「とろろ蕎麦」。または、器にもったそばにそば汁を入れたとろろ汁をたっぷりと乗せて、卵黄を落としもみ海苔を掛ける「やまかけ蕎麦」。
  やまが 大阪市福島区海老江にあった「手打ちそば処・やまが」は「おそばと落語の会」でも有名で、若手や中堅落語家の修業の場として毎月第三月曜日は二階で落語の会が開かれて50〜60人の盛況であった。残念ながら2008年4月に30年の幕を閉じた。
  やまかけ 「山掛け蕎麦」と「とろろ蕎麦」はいずれも、山芋をおろしさらにすり鉢でおろす。「やまかけ蕎麦」は、器にもったそばに少量のそば汁をかけ、そのそばの上に、すりおろしたとろろに三分の一量ほどのそば汁を入れてさらにすったとろろ汁をたっぷりと乗せて、卵黄を落としもみ海苔を掛ける。もう一方の「とろろ蕎麦」はすりおろしたとろろに同量のそば汁と卵黄を入れたとろろ汁にざるそばを浸けて食べる。または、そば汁のほかにとろろを入れた小鉢、卵黄の三種を出して客の好みに任せる店もある。 山芋は、関東ではイチョウイモ、関西では丹波のヤマノイモ、奈良の大和イモなどと種類が多いが、もともとは山に自生していた自然生(ジネンジョウ)、自然薯(ジネンジョ)で各地の山で掘っていた野生のヤマイモのこと。*「とろろそば」と同じ
  山形そばを食う会 山形市の老舗そば屋・萬盛庵が主催したそば会。昭和35年(1960)12月、二代目の時に「山形そばを食う会」を発足させ、毎月第2日曜日に盛況に開催されて同業者も含め多くの会員が毎回参加し、全国でそば屋が主催する「そばの会」では最も長い歴史と回数を重ねていた。平成17年(2005)12月に第529回が開催されたのを最後に閉会された。萬盛庵はその後、平成21年(2009)に閉店した。*紅切りの項参照
  山形の蕎麦 山形は歴史と伝統のあるそば処である。その特徴は山形市内周辺のそば屋では、江戸風のそばが多く、二八の細打ちや中細のそばに出くわすことが多い。一方、県の内陸部には郷土の田舎そばがあって、3〜5人前の太くて噛みごたえのあるそばを長方形の箱板にならすように平たく盛った「板そば」がある。現在、最上川沿いにそば屋が建ち並びそば街道と名付けられるようになったが、大半が「板そば」である。
  山家そば 他のそばと差別化するための呼称で「田舎そば」ともいう。都会風の洗練されたそばに対局する言葉のイメージとして田舎や山家といって「挽きぐるみの色の濃いそば粉で打ったそば」や「噛みごたえがあり甘みと香りの強いそば」などで、多くは太いそばである。そば屋の店名であったり、そば屋の品ぞろえ(並と田舎など)など店によって趣向が異なる。
  山口大根 長野県上田市山口地区で400年程前から栽培されているという地大根。根形は短く下ぶくれ。さわやかな辛味と甘味があり、水気が少ないので「おろし」て薬味にしたり、特に昔から「漬物」に適しているとされ、熱を加えると甘味を増す。
  ヤマゴボウ オヤマボクチのこと。キク科ヤマボクチ属の多年草でヤマゴボウ・ゴボウパ・ゴンボッパの方言のようにゴボウの葉によく似ている。干した葉を蒸して草餅に入れたり、干した葉をもんでもぐさ状にしたものをそばを打つ時のつなぎとして珍重してきた。オヤマボクチのボクチは火口(ほくち)で一種の採火材にも使った。干した葉をもんでもぐさ状にし、火種をとるときに使った。雄山火口。長野県飯山市富倉に伝わる富倉そばが有名。 *富倉そばの項参照
  大和屋大阪砂場そば 大坂の砂場の系統が江戸に進出した時期やいきさつはわかっていないが江戸時代の中期以降になって江戸の町に散見されるようになる。寛延4年(1751)の「蕎麦全書」巻之下の「江戸中蕎麦切屋名寄附名目」の中で江戸の薬研堀に「大和屋 大阪砂場そば」が登場しているし、安永8年(1779)刊・「大抵御覧」のなかに、三又の中洲(現在の日本橋中洲)に「砂場そば」の名が出ている。この他にも、天明年間(1781〜1789)刊の「江戸見物道知辺」のなかに「浅草黒舟町砂場蕎麦」の名前は登場している。
  山物
    ソバ
江戸時代中期以降、江戸では多くのソバが消費されることになり、近郷で収穫されるソバの他に、信州、甲州、武州から馬で運ばれてくる「山物」と、下総、上総、相模など船で運ばれてくる「河岸物」があった。 山物は中野周辺のソバ製粉業者に運ばれ、河岸物は深川・佐賀町の問屋筋へ陸揚げされたそうだが、山物の方が良質とされて一割ほど値段も高かったという。
     
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夕霧そば 柚子切そばを夕霧にかけたもの。近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡」に登場する夕霧太夫にちなんだものだが、大阪では、北区曽根崎・お初天神横手にあるそば屋「瓢亭」の名物は「夕霧そば」で柚子切りの湯通し「せいろ」、すなわち熱盛りを特徴にしている。柚子の表皮だけを細かく擂りおろして、白いそば粉に打ち込んだ変わりそばである。このそばを茹でたそば湯にはかすかに柚子の香りが残っていて味わえる。
  友蕎子 友蕎子といえば、寛延4年(1751)に「蕎麦全書」を脱稿した江戸の住人としかわかっていない日新舎友蕎子のことであるが、後世、友蕎子を名乗った一茶庵・友蕎子・片倉康雄がいる。足利一茶庵の創始者だが、昭和の初め、文筆家でそば愛好家の高岸拓川の勧めで東京滝川中里の手打ちの名人といわれた「日月庵やぶ忠」の村瀬忠太郎のもとに通い手打ちを志す。 とともに、高岸拓川からいわれた「現代の友蕎子を目指せ」といわれたことから「友蕎子」と名乗るようになったという。 *「村瀬忠太郎」「やぶ忠」の項参照
  ゆかり切り 干した赤紫蘇の粉をさらしな粉に練り込んだ変わりそばできれいな色物になる。「ゆかり」は赤ジソの粉末で、初夏の赤ジソの葉をからからに乾燥させて粉末にするが、自然食品としても入手できる。ゆかりは粉全体の2〜3%を入れて練り込む。
  柚子切り 柚子の表皮だけを細かくすりおろしてそばに練り込んだ変わりそばで、薄黄色と柚子の香りが好まれる。さらしな粉を使い湯ごねで打つが、そば粉1kgに柚子2個を使用する。柚子は手に入りにくい季節があっていまでは冷凍物も使われる。表皮を取り除いた果肉部分は打つそばには使わない。黄色く熟した柚子の旬は冬至の頃で10月頃から出始める。
  茹で置き いまは、うどんでしか見ないが、一昔ふた昔前まではそばも茹で置きをした。背景には、昨今の「茹でたて」が当たり前になったので忘れ去られたが、急激な「茹でる環境」の変化がある。茹釜の材質の変遷もあるが、なによりも都市ガスの普及で強い火力、しかも火加減の調整も自由自在の時代が到来して、「茹で置き」から「茹でたて」へ移行する。昭和時代にはまだ、多くのそば屋では「茹で置き」をしていたのではなかろうか。すなわち、打ったそばを「茹でて、茹で玉にして蒸籠に並べる」のが一日の仕事の始まりだったように聞いたことがある。
  茹でかた
    茹で時間
「家庭の熱源」で「手打ちそば」を茹でる場合は、できるだけ大きい鍋、すなわちたくさんのお湯で茹でることがポイント。@沸騰している湯に一握り(一人前か二人前)のそばをやさしく入れ、しばらく間をおいてから沈んでいるそばを菜箸でほんのすこしほぐす。A沈んだそばが(再沸騰して)浮き上がって泳ぐように動き始めた時を「茹での始まり」と考えて、ここからの時間をタイマーで正しく計るのが失敗しない方法である。二八そばの標準的な切りで25秒とか30秒、35秒、太ければ40秒など(湯練りという方法で打った細いそばなどは10秒前後)が目安となるが、茹でるそばの細さ(太さ)の見定めには経験が必要である。もっとも@Aを合わせて茹での時間とする場合は、例えば1分とか双方合わせた茹で時間となる。初心者の打った不揃いの太いそばには茹で過ぎたかと思うくらいが良いのかも知れない。※家庭の場合:ふきこぼれに注意し、火力の調整を心がけることも大切。
  茹で釜
   そば釜
そばを茹でる専用の釜を「茹釜」とか「そば釜」という。この釜は、底の中央から外れた場所に局部的に火をあてる構造で、湯が返り、対流がおきるように作られている。一般的には、湯は手前から奥へ向かって流れ、できるだけゆっくりと大きな輪で釜一杯にまわるのが良いとされている。これに対し、炊飯用の釜などの場合は、釜の底の中央部に火が当たるので、湯の対流は中央部から四方に広がる。そばが絡んだり切れやすくなるので、このような構造の釜をそば店では「馬鹿釜」といった。
  ゆでだしうどん売り 打ったばかりのうどんを「生(なま)」とか「半生」というが、これを製麺所で調理、すなわち茹でたものを「うどん玉」にして大きな蒸籠に並べ置いて売り歩いた。現在では、うどん玉は袋に入れて売られる。これを買って持ち帰り、湯通しまたは湯がいて好みのうどんとして利用した。これを肩に担いで売り歩いた「うどん玉売り」も「ゆで出しうどん売り」も同じ。
  茹でたて

  最もおいしい条件
茹でたてのそば。そばは茹でたてが一番おいしく、時間の経過とともに食感や風味が衰える。近年では、「挽きたて・打ちたて・茹でたて」を「三立て」と表現して、そばを一番美味しく食べる条件だというが、それ以前に、先ず、「茹でたて」が第一条件でなければならない。造語になるかも知れないが「一たて」が優先されるべきだろう。これだと、そば粉の差異、打ってからの時間経過、そば麺の製法などが違っても、そばがもっとも美味しい状態といえる。
  茹で前は恥 「煮え前は恥」のこと。いまは強い火力で、火加減の調整も自在の環境でそばはすぐに茹でているが、明治の頃まではまだ土間に築いたカマドに茹釜をはめ込んで薪を焚き、重い木の蓋をして湯を沸騰させ、投じたそばを、やわらかく沸騰した湯の中で一端沈んでからややしばらくしてゆっくりと浮遊させ、緩やかに煮ていた。このようなそばを煮るといっていた時代の教訓である。「煮え前は恥」「そばの煮過ぎは恥じゃない」そばは芯を残さずしっかりと茹でるべきだということ。昨今、「こし」などといううどん用語のイメージが幅を利かせているが、やはり、そばは芯まで十分に茹でたのを冷たい水で表面を締めて「喉ごし」を大切にするのが本筋であろう。*「煮え前は恥」の項参照
  茹で湯 そばを茹でたときの茹で湯。そば湯のこと。そばを食した後にこれを飲むという記述は元禄10年(1697)刊「本朝食鑑」が初見である。手打ちそばは麺の表面が無数にひび割れしていて、茹で湯にはルチンをはじめそばの栄養成分が濃厚に浸みだしている。ただし、塩分を含んだ乾麺や茹で麺、ましてうどんの茹で湯は「そば湯」にはならない。昔から、うどんを茹でた湯は客には供されず、捨てられる運命にあったため、役に立たないものの例えに「うどんの湯」とか「うどんのぬき湯」(ぬきゆは 茹で湯の職人言葉)とも言われたそうだ。
  湯桶 ゆとう。そば屋で、そば湯を入れてだす容器。角型と丸型があるが、蓋つきで胴体部分に注ぎ口と持ち手がついている。大方はヒノキ地に漆の朱塗りが多く黒塗りもある。なかに、そば湯に凝るそば屋では、陶磁器の湯桶で出す店もある。
  湯通し「せいろ」 熱盛のこと。一度茹でて洗ったそばをもう一度熱い湯に通したり、盛りつけた蒸籠の上から熱湯を掛けるなどの方法がある。蓋つきの蒸籠に盛られた状態で出され、蓋をとると湯気が立ち上るのを熱いつゆに浸けて食べる。江戸時代の後期から明治にかけて流行った。現在では、全国的に見てもほとんど残っていないが、大阪や京都といった上方のそば屋でいまも「熱盛りそば」を品書きに入れているところが多い。たいていは「せいろ」と称していて普通盛りを「一斤(いっきん)」、大盛りだと「一斤半とかイチハン」などとなっている。
  輸入統計品目
「そばの実(殻付)」
わが国に輸入されるソバすなわち玄ソバ(殻付)のことで、いままではすべて「そばの実(殻付)」の数量で統計上把握されていた。ところが、ソバの輸入実態は、玄ソバで輸入されるもののほかに殻を取り除いた抜き実の状態で輸入される割合が増えているという背景があり、輸入されるソバの実の総量としての把握ができていなかった。そのため平成22年1月より、玄ソバの「そばの実の輸入(殻付)」に加え、「その他の加工穀物(そばのもの)」が新設されて、ソバの「抜き実」の輸入についても推計できるようになった。
  輸入統計品目
「その他の加工穀物」
輸入統計品番号1104.29-300「その他の加工穀物(そばのもの)」。輸入されるソバの抜き実の量を把握するために平成22年1月から新設され、これによってソバの「抜き実」の輸入量を推計できるようになった。この背景は、輸入されるソバはすべて玄ソバ「そばの実(殻付)」の数量で統計上把握されていた。ところが実態は、玄ソバで輸入されるもののほかに殻を取り除いた抜き実の状態で輸入される割合が増えている背景があり、輸入されるソバの実の総量としての把握ができていなかった。従って、従来からの「そばの実(殻付)」の数量に加え、「ソバの抜き実を玄ソバ換算」した数量で総輸入量を推計できることになった。 具体的には、2014年(平成26年)の総輸入量は91760トンであったが、これについて横浜税関の資料「そばの実の輸入」によると、91760トンの内訳について殻付き:49924トン  むき実::41836トンであり、このむき実:41836トンを殻付き(玄ソバ換算)とした場合の換算率70%で割り戻した値は:59766トンに相当すると試算している。すなわち、玄ソバ換算によるソバ輸入総量は:109690トンと推計されることになる。
  湯練り 「湯捏ね」「湯もみ」ともいう。そばを打つときに、熱湯を使って練り上げる手法で、そば粉のでんぷんを熱湯で糊化し、それを利用してそばをつなぐ方法。 特に、さらしな粉はソバの実(玄ソバ)の中心部の粉で、白くてほとんどがでんぷん質であり、この方法が欠かせない。そば粉だけを入れた木鉢に熱湯を入れてそば掻きを作り、つなぎを加えて練り上げるが、この段階で色物であればその材料を入れてさらに捏ねる。昔は、そば粉の保存環境もよくなかったのでそばがつながりにくかったが、このような場合もそば粉だけの湯練りが有効である。郷土そばのなかにはもともと湯練りでおこなうところもある。
     
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八日そば
   八日待ちそば
「八日」はヤカの転で「ようか」。月の第八の日で、なかでも旧暦2月・12月の八日を「事八日」(ことようか)といって様々な行事が行われてきた。事始めや事納めとしたり、農事や神事に関わること、疫病退散の祈願、無病息災を祈るなどの大事な日とされてきた。関東地方では「八日ぞ(ようかぞ)といって2月・12月八日に蕎麦や団子をつくって馳走したり、東北地方では八日団子をつくる風習もあった。八日餅はこの日に搗く祝餅であった。八日団子や八日餅と同様に八日そばもあって、例えば津軽地方では旧暦の12月8日にそばを打って食べる習慣があり、栃木県芳賀郡では旧暦2月と12月のこの両日はそばを打って食べる。岡山県北部の川上村高山には12月八日を「八日待ち」「ヤカマツ」などといい、豆腐やこんにゃくを食べる風習があって、なかにはうどんであったりそばを食べるところもあって、鏡野町の場合は「八日待ちそば(ヨウカマチソバ)」だそうだ。
  夜売り 江戸時代初期の江戸や上方では、店を張らずに広く町中で商売(あきない)をする物売りが活動を始め、これらの中には夜に商いをするすなわち夜売りも登場して繁盛する。
  夜売り禁止 明暦の大火(1657)以降の江戸には都市復興のための労働者が増え、これを目当てに煮売りが急増する。復興と火災対策に苦慮していた幕府は、貞享3年(1686)の夜売り禁止の町触れを発する。「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とあって、多くの煮売りの中でうどんやそば切り売りが筆頭にあげられていることからも夜そば売りが多くなったことがわかる。また、夜売り禁止のお触書が再三出されているにもかかわらずあまり効き目がなかったのは、夜商いの煮売りがいかに活発であったかが想像できる。そしてこの夜そば売りが後の時代に江戸では夜鷹そば、上方では夜鳴うどんになって現れ、そして風鈴そばが登場する。
  用捨箱 江戸後期の戯作者・柳亭種彦の考証随筆で天保12年(1841)刊。下之巻十五で「温飩(うんどん)の看板」に「昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに蕎麦きりを売る。今は蕎麦きり盛んになりて、其傍に温飩を売る。」と書いている。江戸も昔は、麺類屋はうどんを主で商ってそば切りはほんの少し置く程度だったが、天保12年(1841)の頃にはまったく逆転してそば切りが主でうどんはほんの少し置く程度だと、江戸におけるうどんとそば切りの逆転現象について書いている。 以下の項参照:「むかしむかし物語」では、「寛文4年頃(1665)には、麺類を扱うほとんどの店の看板が「うどん蕎麦切り」だったとあり、天保8年(1837)起稿の「守貞謾稿」に、「上方ではうどん屋が主になってうどん屋で蕎麦も扱われ、江戸はそば屋でうどんが売られるようになった。」とある。
  与謝 蕪村

    そばの俳句
江戸中期で摂津出身の俳人にもそばの句がある。「残月やよしのの里のそばの花」と「根に帰る花やよしののそば畠」の二句は花といえば桜の吉野でそばの花を詠んだめずらしい句である。戸隠山の麓は謡曲「紅葉狩」の舞台で、鬼が集まって酒宴をひらく「鬼すだく戸隠のふもとそばの花」は一面に咲く白の妖気であろう。新そばの句もある。「新蕎麦やむぐらの宿の根来椀」は、「むぐらの宿の椀」と解すると粗末な宿で使い込んだ朱の漆椀に盛られた新蕎麦の情景であろう。「しんそばや根来の椀に盛来(もりきたる)」は、新そばの風味と根来椀の風情が重ね詠まれている。
  夜蕎麦売り


   屋台の出現
そば切りやうどんが天秤棒の振り売りで盛んに売り歩かれたが、屋根をつけ小型の移動店舗のような屋台が現れた年代はわからないが、後の元文(1736〜41)頃には江戸では夜鷹そば、上方では夜鳴うどんが現れているので少なくとも享保年間(1716〜1736)には屋台のそば屋やうどん屋が出現していたと考えられる。やがて明治になる頃には屋台に車輪を付けて引く、夜そば売りや鍋焼きうどん屋が登場した。
  夜鷹そば
  夜鳴きうどん
異説もあるが夜鷹そばの夜鷹とは、当時、夜の辻々で客を呼びとめて相手をする街娼のことで、それが好んで夜そばを食べたのでいつの頃からか夜鷹そばと呼ばれるようになったというのが大方の通説となっている。夜鷹が好んで夜そばを食べたかどうかはわからないが、それだけ江戸の街々には街娼も夜そば売りも多かったということであろう。夜鷹そばは、「かけそば」専門で、その扱いも不衛生であったが、宝暦(1751〜64)の頃になると、屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら担ぐ風鈴そば売が登場している。器なども清潔な物を使って「しっぽく」(かやくの一種)などの種ものも扱うようになっていった。一方、大坂の街娼は惣嫁(そうか)、京都は辻君と呼んだが、上方の夜そば売りの呼び名はこれらとは関係なく夜鳴(夜泣き)うどんといった。
  四つ出し そばを打つ時の「延し」の工程でおこなう作業。「丸出し」を終えた麺生地を麺棒に巻き付けた状態で転がして延し、四つの角を出すことによって正方形にする。長い巻き棒を使う作業で「つのだし:角出し」ともいう。元来、そばの打ち方は「丸出し」をさらに大きな丸に延していく方法であったが、おそらく、江戸時代の中期後半あたりから立った姿勢が現れ出すとともに出現しだした技法ではなかろうか。*「角出し」も同じ
  四立て 手打ちそばの最も美味しい条件といわれている。通常は「三立て」といって「挽きたて、打ちたて、茹でたて」がよいというそば用語。さらに、「四立て」という場合は「穫りたて」を加えるという意味。但し、「三立て」や「四立て」という表現の出現は、煮たり茹でたりする調理能力が飛躍的に向上した背景があって、いつでも、どこでも、すぐに湯を沸騰させられるようになってからのものであろう。筆者などはなぜか、「穫りたて」には「蕎麦の自慢はお里が知れる」という昔からの諺を連想するとともに、ソバの短い収穫期を考えるとさほど意味合いを感じない。新そばの挽きたてを打って、ひと時置いたのちの茹でたて、すなわち「三立て」で十分である。
  蓬切り (よもぎ) ヨモギの葉をさらしな粉に練り込んだ変わりそばで、春の野草の香りと味が楽しめる。草切り。ヨモギの葉を塩とミョウバンを入れて茹で、さらに湯を2〜3度取り換えながら茹でる。包丁で微塵切りで細かく刻み、すり鉢(ミキサー)にかけて、そば粉に混ぜて練り込む。粉1kgに500ccくらいが適量である。
     
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  落語の会
    おそばと落語の会
もともとそばと落語は相性が良いので、そばを種にした小咄がいくつもある。また、そば屋の二階で「落語とそばの会」がおこなわれる話は今も東西を問わない。大阪市福島区海老江にあった「手打ちそば処・やまが」は「おそばと落語の会」でも有名で、若手や中堅落語家の修業の場として毎月第三月曜日は二階で落語の会が開かれて50〜60人の盛況であった。残念ながら2008年4月に30年の幕を閉じた。
  蘿蔔(らふく → すずしろ) 大根の漢名。大根の絞り汁は蘿蔔汁。早い時代の蕎麦切りを書いた文献に「大根」または大根の絞り汁が多く登場する。中世の文献には漢文体が多く大根に中国名の蘿蔔(ラフク)が使われ、日本名としては春の七草でお馴染みのスズシロ(清白)である。ダイコンの原産地は中央アジア、地中海沿岸などで、日本には中国を経由して渡来したとされる。古く古事記や日本書紀では「於朋泥」「於保爾」など「オホネ」と訓み、その後、大根(オオネからダイコン)になったといわれている。
  乱切り そばの用語として適切なのかどうかはわからないが、太さが揃っていなくて太い麺や細いのが混在している。(この場合、太さの違う麺をミックスしているというのだろうか?)手打ちのそば屋がめずらしかった時代に、そば処の有名な観光地のそば屋で麺が不揃いなのを「さすが手打ち」と思ったり、手打ちの風情のようなものを感じたことはあるが、麺の長さも不均一だったり、平打ちのそばが混ざったり、意図して不揃いにしている。駅そばのなかにも乱切りを麺の特徴にする店もあるそうだ。
ラーメン用語には乱切り麺があって、太いのや細いのを意図的に二種類または数種類混ぜているのもあるという。
  卵切り (らんきり) 鶏卵の黄身だけを使って打った変わりそば。鶏卵の黄身にはそば粉をつなぐ力があるが高価な鶏卵を多く使うので贅沢なそば切である。例えば、寛延2年(1749)刊の「料理山海郷」に玉子蕎麦切があって、蕎麦粉一升に玉子10個とある。黄身だけで打つのを卵切り、白身で打ったのを白卵切り(びゃくらんきり)という。
  蘭切りそば 蘭切りそばは卵切り(らんきり)のことで、つなぎに卵黄を使う昔からの手法である。白身だけで打った「白らん切り」や全卵を入れる「全卵切り」もある。
釧路の竹老園東屋総本店の蘭切りそばは昭和25年(1950)からの名物メニューである。
     
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柳亭種彦 江戸時代後期の戯作者。長編合巻「偐紫田舎源氏」などで知られ、「還魂紙料」や「用捨箱」などの考証随筆も残している。天保12年(1841)刊の随筆「用捨箱(ようしゃばこ)」の中の下之巻十五で「温飩の看板」に「昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに蕎麦きりを売る。今は蕎麦きり盛んになりて、其傍に温飩を売る。」とあり、「うどんが主でそば切りが従」であったが今は逆転したと書いている。江戸時代中期あたりまでは江戸の街でもそばよりうどんが主流だった。(原文の表記は「温飩」、振り仮名は「うんどん」)。
  料理塩梅集 @「料理塩梅集」は、写本でのみ伝わっているもので、翻刻を掲載した雑誌論文として松下幸子・吉川誠次「古典料理の研究(二):料理塩梅集について」(『千葉大学教育学部研究紀要 第25巻 第2部』千葉大学 1976.12 p218-166)がある。尚、当論文は国立情報学研究所(NII)が提供する論文情報ナビゲータCiNiiにて公開されていて、これらを参照した。
A江戸時代初期の料理書のひとつ。寛文8年(1668)に書かれ、著者は塩見坂梅庵。蕎麦切方の中に、そば切りの製法をくわしく記した書で、特に、そば粉のひねる(鮮度が劣化して古くなる)夏には、うどん粉をつなぎに使うと良いと書いている。 「第一新そばよし 挽きぬきよし せいこうのふるひにてふるひ 黒皮あらば箸にてえり捨て挽也 四季共に水にてこねる也・・・・   ・・・右は冬の也 夏はそば ひね申候故 少うどんの粉 そば一升に三分まぜ こねるが能候」とある。「うどんの粉」すなわち小麦粉をそば粉に混ぜてこねる」とある。
「小麦粉によるつなぎ」については「江戸の初期に奈良・東大寺へ来た朝鮮の僧・元珍が伝えた」とする本山萩舟著の飲食辞典があるが出典がない。その意味では、つなぎに小麦粉を使う割粉の初見は「料理塩梅集」であろう。
  料理早指南 大阪ではネギを使った料理を南蛮と言い難波がネギの産地であったので「なんば」といい、ネギを使うから南蛮煮(難波煮)とする説が根強くある。(本当だろうか?)難波がネギの産地であったという記録は見当たらない。
料理早指南は江戸時代の代表的料理書のひとつ。初編の本膳・会席の四季献立のなかで南蛮煮(難波煮)について「難波煮 鯛焼きて 春ねぜり(根芹)夏さきずいき(夏先芋茎) 秋はったけ 冬ねぶか」とあって、冬のみネギを使うが、それ以外の季節はそれぞれ旬の野菜との組み合わせであると記している。ネギを使わなくても南蛮煮という例である。
  料理物語 江戸時代初期の代表的な料理書で、料理の材料や調理法を記した最初の料理書。寛永20年(1643)跋刊(*)が初版とされているが寛永13年(1636)の手書き本があったとされている。著者の詳細はわかっていないが、上方言葉が使われていて大阪生まれの京都定住などの推定もある。
そば切りの製法と食べ方を初めてくわしく記述した書でもあり「蕎麦切り」の項に「めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても 又とうふをすり水にてこね申事もあり 玉をちいさうしてよし ゆでて湯すくなきはあしく候 にへ候てからいかきにてすくひ ぬるゆの中へいれ さらりとあらひ さていかきに入 にへゆをかけふたをしてさめぬやうに・・ ・・汁はうどん同前 其上大こんの汁くはへ吉 花がつほ おろし あさつきの類 又からしわさびもくはへよし」。うどんには「汁はにぬき 又たれみそよし」とある。ここにあげた内容は、後にそば切りの歴史を書いた書物にはしばしば引用されている。(*)跋刊:奥書のあとがき
     
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ルチン (Rutin) ルチンは、ソバの実や葉に多く含まれているフラボノイドの一種で、生活習慣病の予防に効果があるといわれる機能性成分。抗炎症効果や高血圧予防効果、抗酸化作用、血流改善効果などが期待できるとされている。そばの栄養成分の多くは水溶性なのでそば湯にも濃厚にしみだしている。ソバの実を発芽させた「ソバのスプラウト(もやし・発芽野菜)」にもソバの持つルチンが注目されている。 また、ダッタンソバに含まれるルチンは、普通ソバに比べて80倍〜200倍も多いことがわかっていて、これのスプラウトや乾燥粉末原料に加工しての用途も広がっている。
     
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冷凍麺 そばやうどんなどの麺を釜揚げして瞬間冷凍したもの。茹でたての食感が楽しめるので需要が増加している。 麺だけのものと、具やスープなども瞬間冷凍してアルミホイル製の容器に入れたものとがある。釜揚の状態で急速凍結していて、さっと熱湯にくぐらせるだけの簡単調理が可能で、保存料を使わずに鮮度を保てる特徴もある。日本冷凍めん協会によると10月10日を「冷凍めんの日」としているそうだ。
  冷麺 (れいめん) 「冷麺」とは、韓国料理店や焼肉・冷麺店などでおなじみの朝鮮半島に由来する冷麺のことであるが、中華麺を使った「冷やし中華」を「冷麺」というケースもある。(主として西日本で見られ、北海道は冷やしラーメン)
朝鮮半島に由来する冷麺には主として「平壌冷麺」など朝鮮料理としての冷麺と、盛岡冷麺の二種類を指すことが多い。このうち、朝鮮料理としての冷麺にはソバ粉と小麦粉と緑豆のでんぷんが使われていて、盛岡冷麺ではソバ粉は使わず小麦粉と片栗粉などのでん粉と重曹が使われている。
  レモン切り レモンは表皮だけを使うのでよく洗ってから、細かいおろし金ですりおろし、表皮の部分だけをさらしな粉に練り込む。500gの粉にレモン2個。爽やかな香りが楽しめる変わりそばだが、柚子と異なるのは国産の入手が難しい。かんきつ類の輸入物には収穫後に農薬が散布されていることが多いので、表皮部分だけを使うそば打ちには、値段的に高く、かつ不揃いであっても国産品が安心である。輸入物に比べて色は劣るが香りは変わらない。
  蓮玉庵 連玉庵は安政6年(1859)開業の老舗そば屋で、創業時は上野・不忍池の前にあったが関東大震災後に現在の池之端仲町通りに移っている。店名は不忍池の蓮の葉に乗った露にちなんで初代が付けたというのが有名である。斎藤茂吉や森鴎外など多くの文人が贔屓にしたことでも知られる。
  れんげ 麺類のつゆや、とろみのある中華料理、和食の茶わん蒸し、その他箸では食べにくい料理などに幅広く用いられる陶製スプーン(木製もある)のこと。蓮華(蓮の花)から散った花びらに見立ててこの名がある。もっとも、そば屋では使われる機会は少ないが、カレー南蛮などでは重宝する。
  蓮根そば レンコンをおろし金ですりおろし、水を加えてそば粉に練り込んだ変わりそば。レンコンは自然薯などとともにそばのつなぎとして使われ「蓮根つなぎ」ともいう。つなぎ効果が高いので生粉打ちができる。
     
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ロール製粉
       ロール挽き
異なる速度で内側に回転する二つのローラーを通して製粉する方法で大量製粉ができる。ただ、高速回転による摩擦熱が粉に伝わって風味を損ねるとの指摘もあるが、最近の製粉機は冷却式であり摩擦熱はかなり抑えられている。また、粉の篩い分けと再度製粉機にかけることによって「一番粉」・「二番粉」・「三番粉」・・や「さらしな粉(御前粉)」など6〜7種類の粉に挽き分けることもできる特徴を持っている。
石臼で製粉した粉は「石臼挽き」にたいしロール製粉機で製粉した粉を「ロール挽き」という。
     
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  若狭汁 小浜の町民学者・板屋一助が明和4年(1767)の「稚狭考」で「大根の汁にて麺を喰うを丹後、但馬、丹波にて若狭汁といへり」と書き記している。さらに、大根について「西津は淡し、勢井は辛し、熊川は煮て宜しからず、青井は辛くて甘く煮て殊によろし、比三村の大こん麪に用ひてよし。」など、大根を麺に使ってきたことがわかる。信濃・高遠の大根汁に味噌に加えてそばつゆとする「そば辛味汁」や「会津の高遠そば」さらに越前のそばの食べ方など、すべて大根の絞り汁という古い時期の共通性が窺える。
  和漢三才図会 苦蕎麦(ダッタンソバ)についての初見。江戸時代中期の正徳2年(1712)頃の類書(百科事典)で、蕎麦については「曽波之木」について「古名は曽波牟岐としてあり信州の産を上となし・・」、また現在のダッタンソバについては「苦蕎麦(にがそば)俗に田蕎麦という」としての記述がある。この書物は大坂の医師寺島良安によるもので中国の『三才図会』を範として書かれている。
  ワサビ(山葵) ワサビ(山葵)は日本原産で渓流地に生えるアブラナ科ワサビ属の多年草。奈良時代の「本草和名」にも記載されている。山葵の持つ辛味成分はアリルイソチオシアネートというアブラナ科の植物に含まれる化学物質(芥子油)なので、辛味大根と同じようにおろすと辛味が増し、あまり時間を置くと辛みが減少する。根茎の香気と辛味は刺身や握りずし、そばなど麺類の薬味として用いるほか、葉や葉茎を利用したわさび漬けも好まれる。粉ワサビや練りワサビの主原料には西洋ワサビが使われることが多いがワサビ(山葵)とは異種。
  わせそば  早生蕎麦 「わせそば(早生そば)」と「おくてそば(晩生そば・奥手そば)」。江戸時代に書かれた産物記録の「穀物」のなかに、その地域で栽培されている「蕎麦」の品種が書かれていることが多い。そして地域の栽培や食習慣に適した複数のソバの品種が記録されている。それらの中に隠岐国では「わせそば」と「おくてそば」が記録されている。また羽州庄内領(出羽国庄内)では「大つぶそば」「小つぶそば」「もちそば」とともに「をくそば」とある。このことからも古い時代から早生の品種と晩生の品種を組み合わせることによって収穫期を変えるなどの工夫をされていたことがわかる。現在では、ソバの分類は夏型(春播き型)と秋型(夏播き型)の品種に大別され、さらに夏型・秋型それぞれに近い中型の品種があるが、まさしく「早生(わせ)そば」、「晩生(おくて)そば」と、「中生(なかて)そば」である。
*「おくてそば」の項も同じ
  上平大根(わってら) 辛味大根。「わってらだいこん」ともいう。長野・千曲市上平地区で栽培される辛味大根。硬さと辛味が特徴でたくあん漬けやおろし大根として使われる。先端がふくらんで尻部がたいら、ねずみ大根にも似ていて根上部は淡緑色。来歴は不明だが昭和10年頃に栽培されていた資料が残っている。
  割り粉 そばのつなぎに使う小麦粉のこと。中力粉を使う地域と強力粉をつかう地域がある。小麦粉にはグルテニンとグリアジンという二つのたんぱく質が含まれていて、これが水と結合するとグルテンを形成して互いにつながりあうという特性を持っているので、「つなぎ」はこれを利用したもの。そば切りの歴史からみると、江戸時代の初期くらいまではすべてそば粉だけで作るので、そばがつながりにくく、作りにくかった。そのため、「めしのとり湯 ぬる湯 豆腐をすり(すった湯)」など、いろんな工夫をしていたが、小麦粉を割粉として混ぜるようになった。
  割粉の初見 本山萩舟が昭和になってまとめた飲食辞典によると「一説には江戸の初期に奈良の東大寺へ来た朝鮮の僧・元珍が小麦粉によるつなぎの手法を伝えた」とあり、これが割り粉の初見であるとする。ただ、出典は記されていないために異論がある。また、「蕎麦の事典」(新島繁著)によると、上記の「一説には江戸の初期」について「一説には寛永年間(1624〜44)」としている。これについても寛永年間とする出典はわからない。
「料理塩梅集」は、寛文8年(1668)に書かれた料理書で、蕎麦切方の中に、「そば粉のひねる夏には、うどん粉をつなぎに使うと良い」と書いている。
「夏はそば ひね申候故 少うどんの粉 そば一升に三分まぜ こねるが能候」とあり、初見であろう。
  割子そば 島根県出雲地方の郷土そば、出雲そばのこと。割子(わりご)は、元々は四角い重箱のような形や小判型であったが現在の丸型に変化したといわれる。三段重ねや五段重ねが一人前で、殻ごと挽きぐるみした粗いそば粉を使い、黒くて香りが強く太めのそばが特徴で、十割で打ち太い麺棒に巻いて一本で丸延しし、小間板を使わず手ごまで切るのが基本という。大根おろし、またはもみじおろし、海苔、ネギ、はなかつお、などが薬味で、だし汁をかけて食べる。
  割り戻し換算
     歩留まり重量
玄ソバから殻を取り除いて抜き実にした場合の歩留まり重量は75.9%程度とされている。元々、外国産ソバの輸入はそばの実(殻付)すなわち玄ソバだけであったが、近年の輸入実態を見ると殻を取り除いた抜き実の状態に加工して輸入される割合が増えている。 そのため2010年(平成22年)1 月から、いままでの玄ソバの「そばの実の輸入(殻付)」に加え、「そば(抜き実)」も統計品目として把握できる。そこで「殻付き(A)」と「抜き実を殻付き換算(B)」することによってそばの輸入量が推計できるようになった。この際の推計のため歩留り重量75.9%から、「むき実」を「殻付き換算(玄ソバ換算)」するための割り戻し換算率を75.9%として推計している。
  わんこそば 岩手県花巻・盛岡地方に伝わる郷土そば。旧南部藩領に伝わるそば振る舞いの形、お替わりを強いるのが御馳走で祝儀・不祝儀を問わずおこなわれたともいうが、現在では諸説ある。なお、そば屋で「お変わりを強いる」形の商売が始まったのは明治以降でさほど古くはないそうだ。わんこの「コ」は小さく愛すべきものに付けるこの土地の方言である。娘っこ、馬っこなど、飲んべえにとっては酒も「酒っこ」となる また、わんこの「わん」は平椀の方言で、そばを木地椀に入れて出す。
     
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