[ う ] - そば用語の解説一覧 
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u 1  うーめん 温麺(うーめん)は、宮城県白石市の特産品。白石温麺とも。製法は素麺と同じだが引き延ばしに油を使っていないのが特徴で9センチ程と短い。醤油や味噌で作った汁につけて食べるのが一般的である。
u 2  上野地大根 北信濃の戸隠村上野地区在来の戸隠地大根のこと。辛さの中に甘味があるので「あまもっくら」ともいう。主として漬け物用品種として長く自家採種が行われてきたが辛味が強い。平成12年「戸隠おろし」の名称で種苗登録を出願。漬け物用品種、また、辛みが強いのでおろし用品種として期待されているという。
u 3  うこん切り その色合いから「黄切り」ともいう。ウコンの粉末をさらしな粉に混ぜこんだ変わりそば。カレー粉の主原料となるウコン(ターメリック)はショウガ科の香辛料で、濃い黄色のそばができる。粉の量の2%までが適量。
u 4  宇佐美辰一 きつねうどんの元祖で大阪うどんの老舗「松葉屋」の先代。「きつねうどん口伝 松葉家主人・宇佐美辰一(聞き書き) 筑紫書房」がある。きつねうどんは明治26年に松葉家が開店したとき初代が考えたうどんだという。現在は「うさみ亭マツバヤ」大阪市中央区南船場。
u 5  薄墨 古い宮中の御所言葉で「薄墨(うすずみ)」という女房詞(にょうぼうことば)。「そば掻き」や「そばがゆ」とともに「そば湯」も「うすずみ」と呼ばれていた。そば粒の粥やそばを茹でた湯の淡い色合いを表現している。
u 6  碓殿 碓殿(古代の製粉所)。2000年11月東大寺の旧境内から奈良時代の大型建築物跡が見つかり、礎石四基と礎石を抜き取った跡が二ヶ所あって、文献から、写経の資材などを収めた倉庫か、製粉して食材を作った「碓殿」(製粉所)の可能性があると奈良県立橿原考古学研究所が発表した。同時にこの場所から碾磑(テンガイ)と呼ばれる製粉用の石臼の破片も出土したことについて、「東大寺要録(平安時代)」に載っている「碓殿」(製粉所)とも考えられるという。
u 7  うずらそば (うずら)は、古くから愛玩用や調理用として飼育された。明治以降に採卵用としての飼育が盛んになり、大正時代を通じて卵は高価であった。ざるそばやとろろそばに薬味とともに添えられ、つけ汁に割り込んだ。(地域による差があったのと、近年ほとんど見られなくなった。)大阪では、大正13年の老舗「美々卯・本店」で熱盛りの温かい「うずらそば」を発売し、二十枚綴りの回数券「うずらそば券」を発行した。*[画像]は、美々卯の「うずらそば券」(写真上右)
u 8  歌川 豊国 江戸後期の浮世絵師・歌川豊国の筆になる「花街模様薊色縫」では、歌舞伎の題材で二八そばの看板を付けた蕎麦売りの図に仁八という男が登場している。 「鬼あざみ清吉」は実在の盗賊がモデルで、そば屋の屋台と当時使われていた染付の椀などを登場させている。
u 9  歌川 豊広 江戸時代後期の浮世絵師。黄表紙「仇敵 手打新蕎麦」文化4年版(1807)南杣笑楚満人作のなかで、そば屋の店内風景の中に長短・複数の麺棒や重量感のある包丁、生舟(なまぶね)などを描いている。そばを打つ主は四つ出しをしているようにも見え、明らかにそばの打ち方に変化が表れていることがわかるが、打つ姿勢は中腰であり立っていない。
u10  打ち粉 そばを打つときに、打ち台や麺棒に生地がつかず、包丁や切った麺がくっつかないように使う粉。玄ソバ(丸抜き)を挽いたときに出てくる白く粗い「花粉」を使うことが多い。なお、製粉所によって粗い場合と細かい場合もある。また、共粉(友粉)といって、打つそばと同じ粉を使う場合もある。
u11  打ち板 (うちばん) 麺台、打ち台、延し台ともいって麺類を延ばす台のこと。素人が家庭で1kg程度のそばを打つのであれば90センチ×90センチの正方形もあれば足りるが、普通は120(150)センチ巾×100センチくらいが一般的。さらに大きくなると200センチ巾、奥行き120センチなどもある。材質は桐や朴、シナ合板などが手ごろだが、桧材などの延し板は高価である。碁盤や将棋盤などに使われる桂材のものが最上だそうだ。*「延し板 延し台」の項参照
u12  討入りそば 元禄15年(1702)12月14日赤穂浪士討ち入りの前夜。四十七士が両国橋向詰の蕎麦屋楠屋十兵衛に勢ぞろいしてそばを食べたというのが「討ち入りそば」の話であるが、極秘裏で進めてきた討入りの直前に全員が集合して大勢揃ってそば切りを食べるという設定自体に後世の創作だという異説が付きまとう。「うどん屋久兵衛の二階で勢揃い」というもっともらしい話にも、この時代にそんな大広間の二階を持つ麺類屋はどうも不自然である。舞台は江戸だから、江戸は蕎麦というところであろうか。誹風柳多留に「そば切が二十うどんが二十七」がある。これまでは「うどん・蕎麦切り」の看板をあげていた麺類屋の時代で、うどんとそばの時代考証的にはこの方がどちらかというと適している。
u13  打ち初め 「打ち初め」とか「切り初め」ともいって正月そばのこと。東北や甲信越の一部には元日を祝う正月そばや、正月2日に今年初めてのそばを打って神仏に供える風習がある。
u14  打ち棒 麺棒(のし棒)。そばやうどんを打つ道具。地域性や打ち方の違いがあって、一本だけで打つ場合や、太い麺棒や細いの、長短三本を使い分けるなどいくつかのケースがある。もともとは一本であったが、一度に多くのそばを打つ効率から三本の麺棒を使うことが多く、江戸流のそばの打ち方などという。普通、延し棒(長さ90センチ×〜3センチ)が一本、巻き棒(〜120センチ×2.4〜3センチ)が二本で合計三本。材質は、ひのき、ひば、樫、朴の木、桜、栂など。*「麺棒」の項と同じ *「のし棒」の項参照
u15  饂飩 温飩 武飩
   烏飩 (うどん)
奈良の法隆寺の史料「嘉元記」正平7年(1352)の中に「ウトム」とあって文献上初めて「うどん」が登場する。その後、室町時代に入って頻繁に登場し節用集や庭訓徃来、運歩色葉集などの古辞書には、表記は饂飩・温飩・武飩・烏飩など多くのうどんの漢字名が見られる。訓み(よみ)もウトム・ウトン・ウドン・ウントン・ウンドンなど多くの表記と訓みが使われている。
u16  ウトム ウトン ウドン
 ウントン ウンドン
古辞書によるうどんの表記(漢字名)は饂飩・温飩・武飩・烏飩などであるが、訓み(よみ)もウトム・ウトン・ウドン・ウントン・ウンドンなど多くの訓みが使われている。また、近年「うどん」という呼び方が定着しているが、古い時代にも「ウドン」が登場するので新しい呼び名というわけでもなさそうである。
u17  うどん一尺
  そば八寸
うどんとそばがそれぞれ一番たべやすい長さだとされている。「うどん一尺」は30センチくらいが食べやすく、「そば八寸」だから24センチほどが良いという。一方、うどんやそばを打つ観点からみると、うどんは畳んだ生地を切っても麺がつながっているので延しの巾を大きくせず、そばの場合は延しの巾を100センチ(96センチ強)程度が打ち方からもちょうど良い、という「そば職人」からの言い伝えだとも解せられる。特に、細いそばの場合は「そば八寸」の長さが定法だとされている。延し棒の長さ30センチ、巻き棒が120センチほどからみても打ちやすい。
u34  うどん粉とメリケン粉 小麦粉の別称。古くから、小麦粉の使用法の多くは麺類だったことから小麦を製粉したものを「うどん粉」「うんどん粉」といった。これに対し、明治の後半にアメリカから小麦が輸入されるようになって、これを製粉したものを「アメリカ産の小麦粉」の意味からメリケン粉といった。古くからのわが国在来のうどん粉に対しメリケン粉は俗称で、昭和30年ころまで多用されていた言葉である。なお、たまたま日本在来の小麦はもともとうどんに適した(中力粉にあう)中間質小麦が主体だった。
u18  うどんすき うどんのすき焼きの意。「うどんすき」は、大阪の老舗・美々卯の先代が戦後になって考案した。昭和35年には商標登録をしているので他の麺類店ではわざわざ別の名前にしている例もある。しかし「うどんすき」という呼称は普通名詞になってしまっていることを考えるとこれもなんだかおかしな感じがする。(実際にはその後、平成9年に「杵屋うどんすき事件」という係争事件があって、すでに普通名称であるとする東京高裁の判決が下っている。)
u19  うどん蕎麦切り 江戸時代の早い時期にはそば切りよりうどんが主であった。江戸の風俗見聞を記した「むかしむかし物語」のなかに寛文4年頃(1665)には、麺類を扱うほとんどの店の看板が「うどん蕎麦切り」だったと書いている。また、貞享3年(1686)に江戸で出された夜売り禁止の御触書には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。いずれもうどんが主であったことがわかる。
u20  うどん玉売 行商の「うどん玉売り」「ゆで出しうどん売り」茹でたうどんを一人分くらいの分量に小分けして、うどん箱に並べ入れて売り歩く。うどん箱(生舟)は蓋なしを何段も重ねた。「風俗画報」(明治39年346号)の「大阪商人の呼売」には、「うどん玉売 是はうどんを箱に入れて肩にし夕刻うどんの玉宜しと云って呼び歩くもの」と、当時の様子を描写している。
u21  饂飩問屋 「うどん売りの道具一式を備えた屋台」の貸出しをし、うどん屋や鍋焼きうどん売りはこの屋台を借りて売り子となった。【明治物売図聚 三谷一馬著 立風書房】に「なべやきうどん売り」のなかで、明治38年「太平洋」から引用した文があり「看板の行燈へ、当り屋とか千歳屋とか延喜の好ひ名を記し屋台の上へ今戸焼の焜炉(こんろ)二個を添へた荷を貸す饂飩問屋がある。これで屋台を借りて売子となったら、何時でも鍋焼饂飩屋となれるのだが・・・」「之を借入れても、付属品の汁注ぎ薬鑵 行平鍋 箸 箸入れ・・・雑具は売子の自弁」てたいへんだが、そこそこの稼ぎにはなるので、農業の閑を見て、例年遠国から態々出稼に来ることになって居る。とある。
u22  うどんの熱盛り 小麦粉で作ったうどんは切れないが、そばは切れやすくせいろで蒸した時代もあり、そばの熱盛は珍しくない。北の新地と堺には幕末から明治にかけて「うん六」といううどん屋があって、うどんではめずらしい「うどんの熱盛り」を扱って繁盛したという記録が残っている。近年まで、大阪北区に「雲六(うんろく)」といううどんを出す店があった。名代そば・ちく満で、釜揚げの「せいろに盛った熱盛りうどん」にこの「雲六」という名前を付けていた。
u23  「うどん」の初出(初見) 文献上で「うどん」の初出とされているのは、奈良・法隆寺の史料「嘉元記」正平7年(1352)の「三肴毛立、タカンナ、ウトム、フ、サウメマ、一折敷・・・」という記録である。これが、「ウトム(うどん)」と「フ(麩)」の初出である。
u24  うどんの湯 そばを茹でた湯を「ぬき湯」すなわちそばの栄養分が多く含むそば湯のこと。これに対して、塩分を含んだうどんの茹で湯は客には出されず捨てられる運命にあった。役に立たない者の例えに「うどんの湯」とか「うどんのぬき湯」とも言われた。
u25  うどん三本、そば六本 食べ易さと見た目。うどんは太いので箸に三本くらい、そばは六本くらいで食べるのが食べやすいということ。さらに付け加えると、このくらいの量を箸で口に運ぶのが見た目にも良い。
u26  うどん○万 幕末から明治、昭和の初期にかけて、道頓堀を中心にうどん屋が軒を並べるようになった。道頓堀川にかかる戎橋北詰西角にあった「戎橋丸萬」めんるい所うどん○万など、当時を代表したうどんの大店である。
u27  うどんや風一夜薬 大阪のうどん屋に入るとどの店にもこの「風邪薬」が置かれていた時代があって、「熱々のうどんを食べてこれを飲めば風邪が一夜で治る薬」というので、大店の丁稚どんが風邪をひくとこの薬を飲む口実で日頃食べられない熱々のうどんを食べられるので喜んだというほどの評判であった。この薬は、「あたたかいうどんを食べ体を温め一夜サッと寝ることが養生の基本」だと考えた大阪の末広勝風堂が「うどんや風一夜薬」を作って明治9年に売り出したのが始まりで大当たりしたという。はじめ、うどんが一杯二銭でこの風薬一服二銭であったという。さらに、その後、関東では「そば屋の風薬」「そばや風一夜薬」といって売り出された。
u28  うなぎそば うな丼と同じウナギのかば焼きをかけそばに乗せた夏の種物。色どりに山椒の葉や三つ葉、貝割れ菜などを入れる。意外にさっぱりと食べられるそうだが、なによりも、乗せるかば焼き次第だろう。
u29  馬方そば 色は黒く舌触りがよくないが、値段が安く、しかも量の多い下等なそばの呼称のひとつ。馬方は、馬で荷(や人)を運ぶきつい仕事。江戸時代の半ばから幕末ごろまで続いた太田屋定五郎というそば屋が四谷御門外にあって「四谷の馬方蕎麦」ともいわれた。黒いそばだが盛りが良いので馬方が行き帰りに休んでは飯の代わりに食べるのでこの俗称が付いたという。
u30  うろうろ舟  売ろ舟 大坂では、淀川の三十石船に漕ぎ寄せて飲食物を商う「くらわんか舟」の変わり種として「蕎麦切舟」があってうどんやそば切りを売り回った。一方、江戸の隅田川でもそば切り売りの舟が活躍した。「絵本江戸土産」の中に「両国橋の納涼」があって、橋下には船遊びの屋形船など大小の舟で混みあい、その間を漕ぎまわって飲食物を売った「売ろ舟」という小舟が描かれている。屋形船や屋根舟の乗船客に「うろうろぉ〜」といいながら、西瓜や瓜など飲食物を売りに回るのである。この「うろうろ舟」といわれる料理舟は「江戸まへ、大かばやき、御すい物」の行燈看板を出し、餅売、酒売、まんじゅう売、でんがく煮売、さかな売、冷水冷麦ひやし瓜、そば切り売りなどいろんな物売りがあった。
u31  雲鈴(芭蕉の門人) 「そば切りは信濃の本山宿から出た」という説。松尾芭蕉十哲の一人でもあった森川許六が芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後に改題「風俗文選」の中で、「そば切りといふはもと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。ただし、それ以外に裏付けとなる記録などは見あたらず、当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。
u32  うん六 雲六 幕末から明治にかけて大阪・北の新地と堺にあった「うん六」といううどん屋。うどんではめずらしい「うどんの熱盛り」を扱って繁盛したという。道頓堀川にかかる戎橋北詰西角にあった「戎橋丸萬」めんるい所うどん○万などとともに、うどんの大店であった。
u33  運歩色葉集 ウンポイロハシュウ。室町時代の古辞書(国語辞書)。節用集や庭訓徃来など。運歩色葉集は言葉をいろは順に並べた古辞書で、この時代の辞書のなかで掲出語が最も多い。
     
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