[ た行 ] - そば用語の解説一覧 
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ta 1  タータリカム(苦ソバ) ダッタンソバのラテン語の学名は「ファゴビラム タータリカム、ゲルトネル(Fagopyrum tataricum Gaertner)」。「タータリカム」を日本語に訳した「タタール人の:ダッタン人の」から日本ではダッタンソバというようになった。中国では「クーチャオマイ(苦ソバ)」、チベットでは「ギャブレ」、ネパールは「ティート・バーバル」とそれぞれの名前で呼ばれている。*ファゴビラムはソバ属、ゲルトネルは命名者の名前。*「ダッタンソバ」の項参照。
ta 2  だいこそば
  大根そば
だいこんを細く千切りにしてそばと一緒に茹で、つけ汁で食べる。地域によってはそれらを一緒に煮込む。または、茹でた千切り大根を水切りしてそばとあえる。など、細く切った大根とそばを合わせる例は古くから各所で見られた。栃木・那須郡西那須野町西三島は「だいこそば」で年越しをする。そばをたっぷりのせん切り大根と一緒にゆで、熱い醤油汁をかける。山梨・南巨摩郡身延町下山の年越しの夜は大根を混ぜこんだ「大根そば」を食べる。
ta 3  大根おろし汁 そば切りの早い時代、すなわち醤油が普及していなかった頃、そばを大根おろしの汁にたれ味噌を溶いて食べる地域が多かった。例えば、高遠そばは辛味大根の絞り汁と味噌を溶いて食べ、これが会津に伝わったともいう。福井県の「越前蕎麦、越前おろし蕎麦」は大根のおろし汁にだしを注ぎ、好みの量の生醤油を加える郷土そばが健在である。記録として最も早いのは、寛永13年(1636) 信濃・中山道の贄川宿で堀杏庵という儒学者の紀行「中山日録」で「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉・葱・蒜ヲ入レ・・」とある。、蘿蔔汁は大根の絞り汁のことで、元禄10年(1697)刊行「本朝食鑑」も寛延4年(1751)脱稿「蕎麦全書」も「蘿蔔汁は辛辣のものが良い」とある。今でいう辛味大根のことである。*蘿蔔(らふく=大根)
ta 4  対州そば 長崎県対島産のソバ、またはこの地域の郷土そばの流儀。かつて、対馬国では対州ソバの産出が多くて朝鮮地方に輸出していたとされる。また、対州そばは生粉打ちでそばを甑(こしき・大せいろ)に盛って重ね、温水をかけてそば櫛で整えたという。残念ながら、現在ではこの流儀はみられない。
在来品種としての対州ソバの特徴は小粒。対馬藩の産物覚帳では鬼そばとある。
ta 5  大抵御覧 大坂の「砂場」が江戸に進出したいきさつはわかっていないが、安永8年(1779)刊の洒落本で、当時の江戸三景の賑わいを描いている「大抵御覧」のなかに「砂場そば」の名が出ている。当時の江戸三景とは今戸の三橋亭、三叉中洲、高田の富士で、文章の内容は「・・・でんがくしぎやきかば焼酒西瓜の立うり瓜夏桃あなたこなたへ漕ちがふさて又陸には砂場そばにしき団子に大仏餅いくよ餅に蛇目酢ゆで枝大豆・・・」とあるので、三叉中洲、すなわち有名な歓楽地のあった日本橋中州町あたりのことであろう。この他にも、天明年間(1781〜1789)刊の「江戸見物道知辺」のなかに「浅草黒舟町砂場蕎麦」の名前は登場している。
ta 6  大福庵 京都におけるそば切りの初見である「資勝卿記」に登場し、「慈性日記」にもたびたび登場する京都の天台宗寺院。「大福庵」は、出す精進料理が良かったのか振舞の席に利用された記述が登場する。権大納言・日野資勝の日記「資勝卿記」のなかで、元和10年(1624)2月14日の条に、「大福庵へ参候て 弥陀ヲヲガミ申候也 其後ソハキリヲ振舞被申て 又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也」とある。(この人物は、江戸のそば切りの初見「慈性日記」を書いた慈性の父である。)
ta 7  高井吉蔵 大正4年(1915)創業の山形市旅籠町の老舗そば屋「萬盛庵」の主人で、東京の滝野川区中里にあった手打ちそばの名店「日月庵・やぶ忠」で手打ちの修行をした経験を持つ。また、紅花の色素をさらしな粉に練り込んだ紅花そばの紅切りを得意とした。昭和35年(1960)には、二代目が「山形そばを食う会」を主催した。この会はながく引き継がれて平成7年(1995)に400回を、さらに500回を超えておそらく全国最長で続いていたそば会であったが、平成17年(2005)12月に第529回が開催されたのを最後に閉会された。萬盛庵はその後、平成21年(2009)に閉店した。*「紅切り」の項参照
ta 8  鷹ヶ峯辛味大根 京都市北区鷹峰の辛味大根で、元禄(1688)の頃から栽培されていたという。 直径3〜5cmくらいで小カブに似ている。根部に強い辛味があって水分が少なく、おろしてもサラサラしていて、つゆが薄まらず薬味に適している。生産農家が一軒になってしまった時期もあったという。
ta 9  高遠   高遠そば 長野県の高遠そばは、辛味大根の絞り汁に味噌(または焼き味噌)を溶いたつゆでたべる。また、福島県会津地方にも「高遠そばの食べ方」があって、大根をすり下ろした汁に焼き味噌を溶いたつゆで食べ、大根おろしや大根のことを高遠と言うところもある。この高遠そばの食べ方は、早い時代のそば切りの食べ方の原形であったと考えられる。寛永13年(1636)尾張家に仕えた堀杏庵という儒学者の紀行文に中山道の木曽・贄川宿で大根の絞り汁とたれ味噌と薬味でそばを食べたという初見がある。「中山日録」の「蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉葱蒜ヲ入レ・・」とある。
ta10  多賀大社 江戸のそば切り初見である慈性日記を書いた慈性についてそばの通説では「多賀大社の社僧」としている。これは間違いで、名門・日野家出身であり尊勝院住持と多賀大社不動院を兼務した人物で、日記には当代一級の多くの人脈と交流している様子が記録されている。単なる社僧がそば切りを振舞われた記録などではない。 多賀大社は古事記にもある滋賀県犬上郡多賀町の神社で、社僧や坊人が多賀信仰を広めるために諸国に布教活動をした。
ta11  他家受精作物 他家受精作物または他家受粉作物。普通ソバは、短柱花(メシベのほうがオシベより短い)と長柱花(メシベのほうがオシベより長い)の二種類の株に分かれていて、双方の異なる株の受粉によってのみ受粉をし結実する植物で、(異型花柱性)自家不和合ともいって虫などの手助け(虫媒)によって受精する植物である。 これに対し、ダッタンソバは自家受精植物で、同じ一年草のタデ科ソバ属でも両者には遺伝的な違いがあることがわかる。同じタデ科ソバ属の宿根ソバ、別名赤地利(シャクチリ)ソバは多年草の他家受精作物である。
ta12  高嶺ルビー TAKANE RUBY。赤そばの登録品種名。信州大学の氏原暉男教授(当時)が1987年にヒマラヤの標高3800メートルの地域から持ち帰り、長野県のタカノ株式会社と共同で品種改良をした赤い花の咲くソバ。ソバの特徴は、在来の白い花のソバと比較して背丈は低く、ソバの実の収量は1/3程度であり、園芸品種として栽培されることが多く、紅色の赤いソバが長野県を中心に栽培され各地に広がっている。
ta13  竹流し 青森県弘前市で江戸時代から続く名物の蕎麦菓子。寛永7年(1630)創業の大阪屋という津軽藩御用菓子司の四代目が安永2年(1773)に考案した「竹流し」は目屋地方で収穫したそば粉を原料にして仕上げたもの。竹流しの名前は、掘り出した金を溶かして竹に流し固め、磨きをかける前のくすんだ色に見立てている。麺棒で丸延ししてたたみ、短冊形に切って焼き上げてある。
ta14  だごじる 熊本や大分・宮崎などの郷土料理。「ほうちょう汁」「だごじる」「やせうま」などは古くから近年までの庶民の大切な主食ともなってきた。大分では「ほうちょう汁」と、このほうちょうをキナ粉と砂糖でまぶした郷土料理の「やせうま」がある。杵築の殿様が幼少の頃の好物で、やせ(腰元の名前)に「やせ、うまを持て」と催促したことに始まるという説もあるが、本来は、手で延ばしたり握って作られた形が馬の背に似ているところから「痩せ馬」といったり「やせんま」といわれるいくつかの地域に共通する呼称であろうと考えられる。 熊本の「だごじる(だんごじる)」は手で延ばす方法と延ばして切る方法がある。
ta15  タスマニアそば タスマニア産の「利平」と名付けているそば粉のことで、一般市販されていない。 昔から、その年の秋に穫れたソバを「新そば」といって青みを帯び、食味と風味がともに良いとされ、気温と湿度の高まる夏にはそば粉の色合いや食味も風味も落ちる。これに対し、タスマニアの南緯は40度で、日本とは四季が逆になるのを利用してソバの栽培をし、日本の夏に「新そば」を味わうためにタスマニアで栽培されたソバ。浅草の並木藪そばの発想から習志野市の白鳥製粉がタスマニアで取組んだ永年の労作である。「利平」というのは、白鳥製粉の先代白鳥利重と、並木藪そばの先代堀田平七郎のそれぞれ一字から付けられた。
ta16  駄そば そば粉だけの「生粉そば」に対して割粉を多く入れた粗雑なそばの意。そば切りとしては、そば粉が主役で割粉(つなぎ)は脇役だから、割粉(小麦粉)を多く入れたそばは、そばとして軽視(蔑視)され「駄そば」などとして分類されるようになった。江戸時代の中期以降は、同割(そば粉と小麦粉が同率)などにとどまらず「そば粉以上に小麦粉を多く入れる」そばも横行していた。「生蕎麦」とか「手打ち」と称して高級感を出し、一方で「二八の雑そば」などと言って二八そばも粗雑なものとして差別化することになった。
ta17  たたみ そば打ちで「延し」の作業を終え、包丁で切るために麺生地を折りたたむこと。薄く延し終えた麺生地をきちんと重ね合わせながら折りたたむことが大切で、延しの工程よりも多い目に打ち粉を均等に使う。
ta18  たたら大根 長野市西方の鑪(たたら)地区の在来種の大根。 正徳2年(1712)の古文書にそばの薬味として記録されているという。 表面が鮮やかな赤紫色だが中は白。形状は短形。薬味やサラダ、甘味と辛味があり、おろしてそばの薬味にする。
ta19  立ち上がり 小間板の包丁が当たる部分。小間板は、そばを切るときに使う定規のような道具で、包丁の当たる部分を立ち上がり(枕とか駒ともいう)といって堅い木が使われる。 地域性もあって、江戸流の小間板は薄板で立ち上がりは1.5センチほどの低いのが主流である。上方などでは比較的厚板で枕も高く、握り手の付いたものが売られているが、実際に使われている場面に出くわすことは少ない。また、小間板を使わずに手を添えて菜切り包丁を使って切る「手ごま」という古い時代の手法もある。
ta20  裁ちそば 福島県南会津郡桧枝岐村に伝わるそばの打ち方で、小さいそば玉を60cmほどの短くて太い麺棒で丸く延し、切れやすい生粉打ちの生地を丸く延して畳まずに何枚も重ね、布を裁つように包丁を手前に引いて切る。小間板は使わない。このことから「裁ちそば」といわれる。群馬県利根郡片品村に伝わるそばの切り方。丸出ししたそばを半切りして数枚重ね菜切り包丁を手前に引いて切るところから「ひきそば(引き蕎麦)」という。これら、桧枝岐村も片品村も尾瀬をはさんだ双方の入り口に位置し地域的にもそば打ちの特徴が共通している。
ta21  ダッタンソバ ダッタン(韃靼)ソバは、普通ソバと同じタデ科ソバ属の一年生草本で、どちらも原産地は中国雲南省からヒマラヤ周辺が起源とする説が有力である。花は淡緑色で雌しべとおしべの長さが同じで自家受精植物である。この点、普通ソバとは遺伝的に異なる。そば粉は黄色で苦味があるのも特徴である。日本では、北海道や長野県の一部など栽培地は少ないが、世界で見渡すと、中国では四川省や雲南省、ネパール、ブータン、ロシアなど多くの国々で栽培されている。
ta22  ダッタンソバの普及 中国の四川省(や雲南省)には、ダッタンソバを主食にしている高地の少数民族がいて、生活習慣病の発生率が極めて低いことから注目を浴び、このソバに含まれるルチンが普通ソバの数10倍〜100倍も多いことがわかってさらに注目された。ルチンは、生活習慣病の予防に効果があるといわれる成分で、高血圧予防効果や抗酸化作用、血流改善効果などが期待されている。日本では一般的に、脱皮して煎ったダッタンソバ茶としての飲用と、そば粉と同じように麺にされることも多くなっている。乾麺はもちろんのこと手打ちのダッタンソバも話題のひとつである。この他にも菓子類、パン類など健康食品としての効果を期待しての利用法が増えている。さらに、品種改良による国産種でスプラウト(もやし・発芽野菜)や乾燥粉末原料としての用途も広がっている。
ta23  タデ科
   ソバ属
ソバは植物分類学のタデ科(Polygonum)のなかのソバ属(Fagopyrum)に位置する。原産地は中国東北部(旧満州)・モンゴルなどのアムール川流域説や、中国南部またはチベット・ヒマラヤ説などがある。タデ科ソバ属の代表的なものは、(普通)ソバ(Fagopyrum esculentum)、ダッタンソバ(Fagopyrum tataricum)、シャクチリソバ (宿根ソバ)(Fagopyrum cymosum)がある。
ta24  たぬき 大阪ではそばに油揚げを乗せると「たぬき」。東京ではうどんやそばに天かす(揚げ玉)を乗せたのが「たぬきうどん」「たぬきそば」。京都では刻んだ油揚げの上から葛餡をかけると「たぬきうどん」「たぬきそば」。天ぷらを揚げたときの天かす(揚げ玉)を乗せると京都・大阪では「はいから」といった。
ta25  種もの そばやうどんの台にいろんな具をのせたもの。玉子とじ、天ぷら、南蛮もの、おかめ、かちん、など。上方では総称して「かやく(かやくうどん又はそば)」というほうが多い。
ta26  田葉清の蕎麦 幕末から明治に繁盛した大坂のそば店で、心斎橋南詰の東半丁ばかりの処に、天保中田葉清(てんぽうちゅう)といえる蕎麦屋あり、尤も尋常の麺類店にはあらず。という。 幕末から明治にかけて大坂の百科事典的書物とされる「浪華百事談」(作者未詳・明治28年成立)のなかに書かれてある。
ta27  玉子つなぎ 鶏卵をつなぎにして打つそばのこと。料理山海郷」寛延2年(1749)刊の「蕎麦切」のなかに、そば粉について、「土用過し粉はあしく、此ときは粉一升に玉子三か、(またはとう腐一丁)・・・」とある。紀州田辺藩の幕末の医師原田某が、江戸勤番中の見聞記「江戸自慢」で紀州と江戸の食べ物の味くらべを遺している。蕎麦では、「(江戸の)蕎麦は鶏卵を用いず 小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く・・・」とあって、紀州の蕎麦は玉子つなぎだとしている。また、そばに加える水に少量の鶏卵をいれてつなぎにする「玉子つなぎ」もある。江戸時代から登場する変わりそばに「全卵切り」「卵黄切り」「卵白切り」があるが、高価な鶏卵を多く使うので贅沢なそば切りであった。
ta28  玉子とじ 嘉永6年(1853)成立の「守貞漫稿」という幕末頃の風俗誌に、そば屋の品書きがあって、そばもうどんも十六文、玉子とじと天ぷらは三十二文と書かれている。玉子が高価だったことがわかる。そば屋でもうどん屋でも、昔から人気の種物だが、その店の技量がわかる一品でもある。「鶏卵(掻き玉)そばやうどん」の場合は片栗粉でとろみをつけるが「玉子とじ」は鶏卵だけで作られる。「玉子は溶きすぎず」「つゆを充分に沸騰させ」「沸騰しているつゆを一定方向によくかきまわし」「つゆの流れとは逆の回転方向に溶いた玉子を流し入れる」「つゆの温度が下がらないように糸を引くように少しずつ入れる」などがコツ。玉子を煮過ぎない。
ta29  たらいうどん 徳島県板野郡土成町御所地方、現在の阿波市に伝わる郷土料理。明治の初めごろに木材搬出や筏流しの人たちの間で始まった仕事納めの集団食事の形で、記録によると2貫目のうどんをひとつのたらいに入れ何人もが囲んで食べたとある。(貫は、尺貫法における質量の単位で1貫=3.75kg) 初めは、うどんを茹でた釜をとり囲んで直接うどんを食べたが、後に、茹でじるごと木製の飯盆(同地の方言で「はんぼ」)に移して何人もで囲んで食べるようになったのを、昭和の初めごろに「御所のたらいうどん」と呼ぶようになった。また、この地域では「じんぞく」という川魚(ハゼ科のヨシノボリ)のだし汁に浸けて食べる。現在ではこの地域の郷土うどんになっている。       2貫目の出典
ta30  垂れ味噌
    たれみそ
江戸時代より前、またはしょう油が普及する以前の味噌由来の調味料
「垂れ味噌」は、味噌に数倍の水を加えて煮出したのち、布袋に入れて垂れてきた(漉した)もの。これの火を入れないものが「生垂れ」。「煮貫き」は、生垂れに削った鰹節を入れて煮詰め、漉したもの。
「料理物語」で、そばつゆについて「汁はうどん同前」とあって、うどんには「汁はにぬき 又たれみそよし」とある。
「料理物語」 なまだれ:みそ一升に水三升入て袋に入たれこし候也。たれみそ:みそ一升にみず三升五合入三升にせんじ袋に入たれてよし。にぬき:なまだれをして又かつうを入せんしたるをにぬきといふ也。 だし汁:かつうをよき所をうすうすとかきて一升あらは 水一升五合か二升入せんし あちはひをすい見候て よきところにあけてよし(せんじすきたるも又あぢはひあしくなるものなり) 注:「煮貫」の説明もこれと同じ。
     
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ti 1  力うどん 餅を入れたうどん。そば台もある。関西では「かちん」ともいう。「かちん」の語源は女房言葉の餅のこと。焼き餅をのせることが多く、少し焦がしておいて汁に香ばしさを漂わせるのも店の工夫である。ほうれん草や薄く切った蒲鉾などを添える。*「かちん」の項参照
ti 2  ちくま(ちく満) 元禄8年(1695)創業という大阪府堺市宿院のそば屋。熱盛そば一品で、蓋付きの白木のせいろに湯通しされた温かいそばが盛ってあって、生卵を溶いて熱々の蕎麦つゆを注ぎ入れた椀につけて食べる。「せいろ」と称していて普通盛りを「一斤(いっきん)」、大盛りだと「一斤半とかイチハン」さらに「二斤(にきん)」となる。
ti 3  (名代そば)ちく満 大阪の北区に「雲六(うんろく)」といううどんを出す店があった。サンケイホール東隣にある名代そば・ちく満で、釜揚げの「せいろに盛った熱盛りうどん」にこの「雲六」という名前を付けていた。この店の熱盛そばも蓋付きの白木のせいろに湯通しされた温かいそばを盛っている。*「雲六」は幕末から明治にかけて繁盛した大坂のうどんの大店でうどんではめずらしい「うどんの熱盛り」を扱っていた。
ti 4  竹邑庵太郎敦盛 京都にある熱盛り専門のそば屋。上京区椹木町烏丸で、ふた付きの白木のせいろに湯通しされた色の濃いそば、生卵に九条ネギを刻んだ椀となぜか梅干しが付いている。そばは一斤か一斤半、または二斤となっている。同じ京都の「本家尾張屋」は「温せいろ」、蓋をとると細くて長い白い蕎麦が漆塗りの少し横長の蒸籠に入っている。「冬の京せいろ」には鷹峰産辛味大根の下ろしたのが添えてある。
ti 5  竹老園東屋総本店 釧路市の春採湖畔にある明治創業の老舗そば屋。そばはクロレラの粉末を使い緑がかったそばにしている。「蘭切そば」「茶そば」「そば寿司」「かしわぬき」の蕎麦コースをだしている。蘭切りそばは卵切りともいってつなぎに卵黄を使う昔からの手法である。「かしわぬき」は「かしわそば」からそばを抜いたもの。
ti 6  千村新十郎政直 そば切りの初見である天正2年(1574) 木曽大桑村須原の常勝寺・古文書の中で朝食と強飯を振舞った「千新」。記録の中の「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ」を寄進した千淡内はこの千村新十郎淡路守の夫人である。「千新」は木曽義仲から数えて15代目で、武田信玄や木曽義康に従って戦功のあった木曽氏一族の武将である。この寺の記録はその人物を頭文字だけの略称で表記している。だとすると「振舞ソハキリ 金永」も単なる金永さんではなく寺と関係の深い名のある人物であった可能性も考えられる。
ti 7  茶そば 茶切りともいう。抹茶をさらしな粉に混ぜこんだ変わりそば。抹茶は用意しやすく保存もしやすいので素人にもよく打たれる変わりそばで、粉の量の2〜3%の抹茶をいれるが意外と水を吸うので多少多めの加水をするときれいな茶そばに打ちあがる。明治の頃には、茶そばの熱盛りを肴にする通人も少なくなかったという。
ti 8  茶湯献立指南 元禄9年(1696)刊の料理本。12種類の用途別包丁の図があってその中のひとつの包丁「蕎麦切」は「そば切包丁」と記述された初見であろう。ほぼ同じ頃の「羮学要道記」元禄15年(1702)にも「蕎麦斬包丁」が書かれている。いずれも現在見るそば切り包丁のような特化は見られない。仮名草子「酒餅論」寛文(1661〜)・元禄以降(1688〜)の「めんるひ(麺類)」に登場する「そば打つ所」と題した挿し絵にも包丁が描かれているがそれと同一形状である。
ti 9  チャルメラ 唐人笛とも呼ばれ、先端が少し広がった木管楽器。大正から昭和の前半に「支那そば」売りの屋台が一種独特のメロディーでチャルメラを吹きながら街々を流して歩いた。裸電球に傘の掛かった街灯しかない夜の街に、遠くでかすかに聞こえたチャルメラの音(ね)が屋台の明かりとともに近づく昭和半ばまでの夜の風景である。注:「支那そば」という表現は現在は好ましくないとされている。しかし、敗戦後の日本が貧しかった時代の食文化を語るには一足飛びに「ラーメン」からではいかにも言葉足らずであると考えただけで、他に意図はない。
ti10  中山日録 そば切りの食べ方についての初見。寛永13年(1636)尾張家に仕えた堀杏庵という儒学者の紀行文に中山道の木曽・贄川宿で大根の絞り汁とたれ味噌と薬味でそばを食べたという記述がある。「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉葱蒜ヲ入レ・・」とある。これは、江戸初期の代表的な料理書で寛永20年(1643)跋刊(あとがき)「料理物語」の 「蕎麦切り」の項「めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても 又とうふをすり水にてこね申事もあり・・ ・・汁はうどん同前 其上大こんの汁くはへ吉 花がつほ おろし あさつきの類 又からしわさびもくはへよし」を7年遡る記述である。
ti11  昼夜そば 「合わせそば」ともいう。変わりそばの色物二種の生地を重ね合わせて延すことによって、麺が二色に切りだされたそば。さらしな粉を湯練りした更科そばの白色と海老切りの赤色を合わせて紅白のそばができる。さらしなの白と胡麻切りの黒と合わせると白黒の昼夜そばができあがる。*「合わせそば」の項も同じ
ti12  ちんぴ(陳皮:橘皮) 熟したみかんの皮を干したもので漢方薬の原料のひとつであり、「七色唐辛子」にも入る。古くはそばやうどんの薬味として使われた。 元禄10年(1697)刊行「本朝食鑑」の蕎麦切りについて「蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・蕃椒・紫苔・焼味噌・梅干などを用意して、蕎切および汁に和して食べる。」とある。また、寛延4年(1751)脱稿「蕎麦全書」の「家製に用る役味の品」のなかに橘皮(ちんぴ):内皮をすき去り、至極細末(細かい粉)し用ゆ。とある。現在でも鹿児島県では、そばの薬味として熟した桜島小ミカンの皮を干した橘皮が添えられる。
     
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tu 1  津軽そば 青森県津軽地方独特のそばの打ち方で、大豆の呉汁でそばを練り一晩寝かしてから打つ。切ったそばは茹でて玉にしてからの保存性が優れ、茹でるとツルツルして腰が強く熱い種物に向いていたので、江戸時代から明治まで夜そば売りに使われた。「青森県文化観光資源データ集」のなかで、「津軽そば」について次のように説明している(原文のまま)「津軽そば」は、そば粉を湯で練り上げたタネを冷水に浸し、摺りつぶした大豆(またはしぼり汁)とそば粉を加え再び練る。細めにそばを切り、生そばの状態で夏場は一晩、冬場は二晩冷暗所で寝かしてから茹でる。独特のコシの強さと大豆のほのかな甘みが特長。江戸時代元文年間(1736〜)頃より市内を売り歩く屋台そばがルーツといわれている。」とある。
tu 2  搗き臼 木や石の臼で中を円形にくぼませた搗(つ)き臼。これに杵を使って穀物を粉砕し粉を篩い分けるのを胴搗製粉という。石臼が普及する江戸初期以降までは胴搗製粉が主流であった。現在のそば製粉は、ロール製粉が主流で、このほかに石臼製粉とごく一部でおこなわれている胴搗製粉がある。
*「胴搗製粉」の項参照
tu 3  月見 「月見そば」や「月見うどん」のこと。そば屋、うどん屋ともに品書きに載せている種物で、鉢の中央に生卵を乗せて熱い汁を入れるので白身のふちが白雲のようになって、月見の風情を表す。添える具(加薬)には、卵の下に海苔を敷いて月夜の山に見立て、椎茸や薄く切った蒲鉾、三つ葉で松を表わす。
tu 4  つけ麺 温かいつけ汁に冷たい麺をつけて食べるラーメンメニューのひとつ。冷水で締めた麺が別の器に盛られ、熱いつけだれで食べる。一般的にラーメンよりも麺の量を多くし、つけだれ(スープ)は濃いめ。具の内容やトッピングは店によってさまざまだがラーメンとほぼ同じ。
tu 5  晦そば(つごもりそば) 「つごもり」は「月隠り(つきごもり)」が転じたもので月末。年の暮れは「おおつごもり」で「大晦」。従って、月末に食べるそばで、年の暮れ31日に食べるのが「大晦日そば」。これが多くの地域で「年越しそば」のしきたりになった。「つごもりそば」は「みそかそば」ともいう。
tu 6  対馬そば 長崎県対州産のソバ、またはこの地域の郷土そばの流儀。かつて、対馬国では対州ソバの産出が多くて朝鮮地方に輸出していたとされる。また、対州そばは生粉打ちでそばを甑(こしき・大せいろ)に盛って重ね、温水をかけてそば櫛で整えたという。
在来品種としての対州ソバの特徴は小粒。対馬藩の産物覚帳では鬼そばとある。*「対州そば」に同じ
tu 7  蔦屋 江戸末期の頃、本郷団子坂の竹藪のなかにあったそば屋。そこの連雀町店を引き継いだのが今の神田・薮蕎麦の堀田七兵衛初代で、その以前は蔵前で「中砂」という店をやっていて、北池袋にある西念寺の墓石には「大阪屋七兵衛」とあってもともとは砂場系出身だったとも。
tu 8  つなぎの初見 初期のそば切りはそば粉だけで作っていたが、その後、そばが切れないように、また打ちやすいように工夫する過程で、小麦粉や鶏卵、山芋(自然薯)などを混ぜるようになった。「小麦粉によるつなぎの初見」に関しては、江戸時代の初期に、奈良・東大寺へ来ていた朝鮮の僧・元珍が小麦粉によるつなぎの手法を伝えたという説がある。本山萩舟著「飲食事典」によるが、出典はわかっていない。 また、「蕎麦の事典」(新島繁著)によると、上記、飲食辞典の「一説には江戸の初期」という部分について「一説には寛永年間(1624〜44)」としている。これについても寛永年間とした出典はわからない。
これに対し、「料理塩梅集」は、寛文8年(1668)に書かれた料理書で、蕎麦切方の中に、「そば粉のひねる夏には、うどん粉をつなぎに使うと良い」と書いている。「夏はそば ひね申候故 少うどんの粉 そば一升に三分まぜ こねるが能候」とあり、初見であろう。*「料理塩梅集」の項参照
tu 9  つなぎの割合 そば粉の持つ味と香りを最大限保ちながら、麺としてつなぐためのつなぎ(小麦粉など)をどの割合にするかはそばを打つ場合の大切な要素である。 例えば、「そば粉対つなぎ」を「8:2」とか「7:3」にしたのが八割りそば(一般的に二八そば)とか七割りそば(七三)であり、または「10:2」「10:3」などの配合比率にしたものを、外二(そとに:10+2)外三(そとさん:10+3)などと言っている。江戸時代の例でみると、「蕎麦全書」の「蕎麦切屋のそば小麦粉を入る割の事」のなかにそば粉よりも割粉の方を多く入れているそば屋を引き合いにした例があって「小麦粉四升にそば粉一升を入るる也 四分一の割也」「割を多く入三分一にせり」などと当時の計量の実例を挙げている。実際に江戸時代後期の商いの場合では、同割りとか一杯一杯などと言ってそば粉とつなぎの量が同じというケースも多かったようだ。
tu10  津の国屋 「砂場」の発祥は大坂で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」と「いづみや」というそば屋だという。そこは大坂城築城の砂や砂利置き場で、通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになった。嘉永2年(1849)刊行の「二千年袖鑒」の中に天正12年(1584)大坂でそば屋・津の国屋が開店したとあり、「すなば」の暖簾が見える津の国屋の店先と「天正十二 根元そば名物 砂場 二百六十五年 吉田氏 出所 泉州 東畑村」と読みとれる。時代は、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年である。(ただし、「当時の実録でなく後世の書物である」としての異論もある。)
tu11  角出し(つのだし) 「四つ出し」のこと。そばを打つ時の「延し」の工程でおこなう作業。「丸出し」した麺生地を麺棒に巻き付けた状態で転がして延し、四つの角を出すことによって正方形にする。長い巻き棒を使う作業。元来、そばの打ち方は「丸出し」をさらに大きな丸に延していく方法であったが、おそらく、江戸時代の中期後半あたりから立って打つ姿勢が現れ出すとともに出現しだした技法ではなかろうか。*「四つ出し」も同じ
tu12  面出し(つらだし) 木鉢の作業で、水回しも終盤になり粉に水がゆきわたって、小さい粒々から大きな塊になって、それらをまとめる「くくり」のあと練り込みを進めて、そば玉の表面に艶を出していく。面(つら)を出すといって「面が出た」ともいう。
*「くくり」の項参照
tu13  面水(つらみず) 茹で上がったそばをすくいあげ、すばやく冷たい水をかけて冷やす。そば屋では洗い桶の冷たい水があるのでこれを手桶に汲んで素早く使う。この時の水を「面水(つらみず)」という。そばを洗い終えたときにも同じように冷たい水をかけることを「化粧水」というが、どちらも引き締まった美味しいそばに仕上げるための作業である。素人が打ったそばを茹でる場合などの多くは「洗い桶の冷たい水」などがないのが普通だが、初めの「面水」仕上げの「化粧水」の効用くらいは念頭に置いて洗いと締めをしたいものである。*「化粧水」の項参照
     
 
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te 1  であいもの 日本料理で、おなじ季節に出回る旬のもので相性の良い組み合わせ、料理の相性の良いことをいう。例えば「筍とわかめ」「ブリと大根」「サンマと大根おろし」などはよい例だ。逆に、同食すると良くない(と伝承されている)ものを「食い合わせ」といって「蕎麦とタニシ」「蕎麦とスイカ」「ウナギと梅干し」などこちらもいろいろある。今では消化の良い食べ物に入る蕎麦も昔は消化が悪く傷みやすい食べ物であったことがわかる。
te 2  ティート・バーバル ダッタンソバとは日本だけの呼び方で、ネパールは「ティート・バーバル」中国は「クーチャオマイ(苦ソバ)」、チベットでは「ギャブレ」とそれぞれの名前で呼ばれている。ラテン語の学名は「ファゴビラム タータリカム、ゲルトネル(Fagopyrum tataricum Gaertner)」で、ラテン語の「タータリカム」を日本語に訳した「タタール人の:ダッタン人の」が日本での呼称となった。「ファゴビラム」は「ソバ属」、ゲルトネルは命名者の名前。
te 3  庭訓往来 「ていきんおうらい」は往来物(往復の手紙)の形式をとる国語辞典。14世紀の後半(南北朝後期〜室町初期)に成立し、江戸初期にかけて多くの注釈本が出され時代を代表する国語辞典である。同様の古辞書には(古本)節用集や運歩色葉集などがある。
te 4  手打ち 「手打ち」という言葉の出現は「駄そば」や「二八の雑そば」などと差別化するために「生粉打ち」の上製であることを強調した言葉だとされる。「生蕎麦」とか「手打ち」と称して高級感を出すために使われた。その時代背景には、同割(そば粉と小麦粉が同率)や、さらにそば粉以上に小麦粉を多く入れたそばも横行していたことがある。ただし、製麺機が出現してからは、「機械打ち」のそばやうどんに対する「手打ち」の意として使われる。 寛文(1661〜73)から元禄以降(1688〜)とされる仮名草子「酒餅論」に「そば打つ所」と題した挿絵があり、「そば打つ」という言葉が出現する。そして、描かれている包丁も元禄9年(1696)刊の「茶湯献立指南」に初めて登場する「蕎麦切包丁」と同一形状である。(今の形状の包丁はまだ出現しない。)
te 5  手打ちそば 手打ちのそば。そばを打つ道具を使い、「手で水回しをし、手でこね、延し、畳んで切る」この一連の手で行う作業を経て作られたそば。機械打ちで作られたそばと対比した言葉。
te 6  手ごま  (手小間) そばを切るときに、小間板を使わず、手を添えて切ること。初期のそば切りはすべて「手ごま」で切っていた。江戸時代後期の史料、文献をみても小間板は登場していないし、そば切り包丁も現在の「握り手が包丁の中心部分まで侵入した包丁」は見つからない。案外、包丁も小間板も、明治以降になってから同時並行的に開発されたのかもしれない。
te 7  手振り蕎麦 茹でたそばを洗い水から親指に一口分絡ませて、水けを切って盛り付ける手の動作から「手振りそば」という。新潟県の小千谷市から十日町市にかけては織物の産地で縦糸の糊付けに海草のフノリが欠かせない。フノリを煮てノリ状にして打った「へぎそば」はこの手法で波の形に盛りつけられるので「手振り蕎麦」という。大きな長方形のせいろに一把ずつ並べた盛りつけと独特の歯触り、薄く青味がかったそばの色合いが特徴である。「へぎそば」の「へぎ」(片木・剥ぎ板から)は30×50センチ程の長方形の浅い箱に3〜4人前を盛る。*「へぎそば」の項参照
te 8  出前 料理を注文に応じて客に配達すること。配達する人を出前持ちという。出前の歴史は古く江戸時代の資料にも載る。夏は白地に模様入り、冬は黒地の印半纏に鉢巻と威勢が身上。出前盆の上に蒸籠や丼鉢を並べ、時には二段、三段重ねの「肩かけ」。出前盆の「手持ち」は脇を締め、親指・人差し指・小指の三本で台を支え、中指・薬指を折り曲げて割り箸の束を持つ独特の風景でもあった。その後、昭和に入ってからは自転車が使われ、やがてバイクに出前機をつけて走るようになった。
te 9  出前機 出前の歴史は江戸時代からだが、昭和に入ると自転車やオートバイの出前が登場する。片手でハンドルを持ち、もう片方に岡持ちや出前盆の「手持ち」や二段、三段重ねの「肩かけ」といった片手運転の出前が市中を横行して交通事故も多発するようになった。そこで登場したのが「出前品運搬機」で通称「出前機」である。発明は、東京都目黒区のそば屋の二代目で、昭和30年(1955)に実用化され、同40年に会社を設立している。現在も、自転車や二輪オートバイ、三輪スクーターに取り付けられて出前機は活躍している。
te10  寺方蕎麦 うどんやそばは寺院とのかかわりが深く僧たちも食し振舞いにも使われたが、寺の門前町にもそば屋やうどん屋が発達した。北多摩郡神代村(東京都調布市深大寺)の深大寺、信濃の善光寺、戸隠神社、島根県の出雲大社などがその代表例である。うどんでも、群馬県の榛名山麓にある水沢観音の門前には400年の歴史と伝わるうどん店もある。
te11  寺方蕎麦覚書き 史料が公開されていないので評価は得られていないが、室町時代開山の尾張・一宮にある妙興報恩禅寺には、慶長13年(1608)6月21日と記された「妙興禅林沙門恵順 寺方蕎麦覚書」があって蕎麦の調理法が書かれているという。これを主張しているのは東京「長浦そば」伊藤長浦氏と二代目店主・伊藤汎氏。「つるつる文献集」は圧巻である。
te12  碾磑 (テンガイ) 古代の製粉用の石臼と考えられている。石臼は、奈良時代にはすでに日本にもたらされていたとされる。先年(00年11月)東大寺の旧境内から奈良時代の大型建築物跡が見つかり、礎石四基と礎石を抜き取った跡が二ヶ所あって、文献から、写経の資材などを収めた倉庫か、製粉して食材を作った「碓殿」(製粉所)の可能性があると奈良県立橿原考古学研究所が発表した。同時にこの場所から碾磑(テンガイ)と呼ばれる製粉用の石臼の破片も出土し、「東大寺要録(平安時代)」に載っている「碓殿」(製粉所)とも考えられるという。福岡県太宰府市の観世音寺の講堂の左手前にある「碾磑」。「天平石臼」とも「鬼の石臼」とも俗称されている直径1メートルもの花崗岩の碾磑が現存している。江戸期の筑前国続風土記附録には「くすりのひきうす」とあるがよくわかっていない。
te13  天ざる ざるそばに別盛りにした天ぷらをつけたもの。天せいろ。これらは、昭和になってからの品書きで、東京の室町砂場が海老の天ぷらを別に付けたのが好評で始まったともいう。天盛り。
te14  天つき三杯・・
  天まじり三杯・・
そば屋の通し言葉で「天つき三杯のかけ」は「天ぷらそば一杯とかけそばが二杯」の意味になり、「つき:つく」が「ひとつ:一杯」で、その後の数「三杯」は合計の数、したがって「かけは3−1で二杯」となる。「まじり」は「ふたつ」で「天まじり三枚もり」だと天そばが二杯ともり一枚となる。現在、使われているそば屋は極めて少ない。
te15  天綴じ 天ぷらそばを玉子でとじた種物。「天綴じそば」「天綴じうどん」がある。芝エビとか、タイショウ海老、車エビなど海老の天麩羅を温かいかけそばに乗せたのが天麩羅そばで、その上に、鶏卵をといて流し込んで、卵綴じしている。
te16  天抜き
  天吸い
天ぷらそばのそばを入れないもので、天ぷらの吸い物のこと。店によって、鴨吸い(鴨抜き)なども。現在では、ほとんど見られなくなった品書きだが、老舗そば屋の酒の相手として出されていた。*『抜き 例えば「天ぬき」』の項参照
te17  天目山 (棲雲寺) そば切りが甲州から始まったという記録に登場する棲雲寺という臨済宗の山号。江戸時代の半ば、そば切り発祥の地についての二つの説が現れる。一つは、甲州説で、尾張藩士で国学者の天野信景が雑録(随筆集)・「塩尻」の巻之十三宝永(1704〜11)のなかに、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし。」としているのが甲州説である。もう一つは信州の本山宿だとする説がある。*「甲州説・信州説」を参照。
te18  天平石臼 福岡県太宰府市の観世音寺の講堂の左手前にある「碾磑(テンガイ)」の俗称。「鬼の石臼」とも。*「碾磑(テンガイ)」の項、「鬼の石臼」の項を参照
te19  天ぷら蕎麦 大正海老や車エビなどの天ぷらをかけそばの上にのせたもの。そばの器から海老がはみ出したものや、揚げたての天ぷらがつゆに浸みる音をわざと聞かせるように注文が入ってから揚げる店もある。芝エビや貝柱のかき揚げも合う。江戸のそば屋でも、貝柱のかき揚げは深川や近くの千葉・行徳などでとれた馬鹿貝(現在ではあおやぎ)の小柱で、そば屋の定番であった。
te20+1  田法記 (デンホウキ) 松江藩の地方役(ジカタヤク)岸崎作久治が天和2年(1682)に著した農政書。出雲地方の農産物としての「蕎麦」が登場し、播種期や輪作方法などについても記されている。蕎麦の蒔き時では「七夕前土用を懸けて蕎麦・・・」、「麦跡には茄子、たばこ、大小豆、蕎麦、あい、胡麻の類也」、畑壱反に必要な種用として「蕎麦壱反に種納壱斗五升之位」を積り之事とある。
te20  天保のソバ 平成10年、福島県双葉郡大熊町での旧家改築の際に、天井裏から黒く変色した米俵6俵が発見されて、中から大量のソバの実が出てきた。この横川家では代々言い伝えられてきたソバで、江戸時代後期の天保の大飢饉を経験した先祖が子孫のために天井裏に貯蔵したものであった。ソバの実を小型の俵に詰めた上にさらに俵で二重三重に保護し、それぞれの俵の間には木炭粉や灰が詰められていたという。横川家・当主は、このソバの実を発芽させるために公共の研究機関などに依頼したがすべて不発の後、さらに、山形の製粉会社経営者に依頼したのがきっかけで、山形のそば職人のグループが発芽に挑戦し見事に発芽から結実までにこぎつけた。まさしく天保時代のソバを現在に蘇らせたもので「天保そば」と名付けた。(幻の山形天保そば保存会の記事を参考にした。)
   
 
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to 1  峠の大根 伊吹山の麓、滋賀県坂田郡伊吹町で古くから知られる辛味大根で伊吹大根。 鼠大根とも蝮大根(まむしだいこん)と呼ばれる事もある。石灰質の土質であるこの地以外では辛味を生成しなく小規模栽培。独特の甘味と辛味があり、小型で尻づまり型、茎の部分が少し紫色。土中に浅いので蹴って掘り起こすので「けっから大根」ともいう。 宝永3年(1706)に「風俗文選」を刊行した森川 許六は、この大根について「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む」と書いている。*「森川 許六」の項参照
to 2  東光院 江戸のそば切り初見である「慈性日記」に登場する江戸小伝馬町にあった寺院。当時は江戸の天台宗百八寺の総本寺であった。慈性たちがそば切りを振舞われた慶長19年(1614)ば、徳川家康が新政権の宗教政策を決めるための御前論議を江戸城本丸で盛んに行ったので、各宗派の僧たちは江戸にとどまっている必要があった。天台宗の僧たちの逗留所は東光院や法性寺であったことが日記から読み取れる。そば切り振舞もそれら逗留した寺での出来事であった可能性が高い。*東光院は現在、台東区西浅草にひっそりとある。
to 3  道光庵 浅草・寺町の称往院の院内にあった道光庵の庵主は信州松本出身のそば打ち名手で、寺でありながら振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛したという事例がある。その後天明6年(1786年)三代目の時に親寺の称往院から「蕎麦禁断の碑(不許蕎麦入境内)」を門前に建てられてしまう。その後、道光庵の繁昌振りにあやかろうとするそば屋が現れて屋号に「庵号」を付けることが流行りだした。そば屋「庵号」の始まりとされている。称往院は昭和2年に現・世田谷区烏山寺町に移転し石柱とともにある。
to 4  とうじかご 茹でて水洗いし、一人前ほどに小分けしておいたそばやうどんを熱い湯の中へ入れて温める小さいかご。または、信州の郷土そば料理「とうじそば」を食べる際に、小分けしたそばを「とうじかご」に入れて鍋の中でさっと湯がくのに使われる。竹製の籠は多少の違いはあるが、20〜30cmの柄の先に9cmほどの丸型か長方形で深さ5cmほどの竹笊がついている。
*「とうじそば」の項参照
to 5  とうじそば 信州奈川地区の郷土のそば料理。茹でて水洗いして小盛りしておいたそばを、季節の野菜やキノコ、鳥肉などを入れて出汁をとった鍋に柄のついたとうじ籠で暖め、椀に入れて食べる。この地域では、このようにしてそばを鍋に浸すことを「とうじる」という。*「とうじかご」の項参照
to 6  胴搗製粉 「粉」は古来から、搗(つ)き臼と杵を使って穀物を粉砕して、粉を篩い分ける方法がとられた。昔は水車小屋で製粉されていたのが胴搗製粉である。その後、石臼が普及することになって製粉の効率と粉の品質が飛躍的に向上する。更にその後の製粉方法は、異なる速度で高速回転しているローラー(鋳鉄製ロール)で穀物を製粉するロール製粉が主流になっていく。このように、そば粉についてもロール製粉と石臼製粉、それとごく一部であるが胴搗製粉で挽かれている。*「石臼」の項参照
to 7  道城そば 秋田県北秋田市の旧合川町 道城地区に昔から伝わるそば。つなぎに大豆の呉汁を使う青森県津軽地方の津軽そばと同じ特徴のそばが伝わっている。また、この地域では「何杯もお替わりを強いる」岩手の「わんこそば」と同じ振る舞いそばの風習もある。*「津軽そば」の項参照
to 8  通し言葉 客の注文を調理場や作業場に店内用語を符丁も交えながら簡略化して伝達する言葉。例えばそば屋にはそば屋の店内だけで通用する独特の言葉があって、ひと昔前まではこれを自由に使えなければ一人前と言われなかったが、現在ではほとんど使われることはなくなった。通し言葉の一例は、「天つき三杯のかけ」と言うと「天ぷらそば一杯とかけそばが二杯」の意味で、「つき:つく」が「ひとつ:一杯」で、その後の数「三杯」は合計の数、したがって「かけは3−1で二杯」となる。「まじり」は「ふたつ」で「天まじり三枚もり」だと天そばが二杯ともり一枚。大盛りは「きん」だから、「もり一枚きん」で大盛り一枚。
to 9  東大寺要録 東大寺に関する幅広い史料や、寺院組織や年中行事、さらに寺領や荘園などを収録し、長治3年(1106)の成立でその後も追加増補されている史料集。平成12年(2000年)史跡東大寺旧境内第85次調査によると、旧境内から奈良時代の大型建築物跡が見つかり、礎石四基と礎石を抜き取った跡が二ヶ所あって、文献から、写経の資材などを収めた倉庫か、製粉して食材を作った「碓殿」(製粉所)の可能性があると奈良県立橿原考古学研究所が発表した。同時にこの場所から碾磑(テンガイ)と呼ばれる製粉用の石臼の破片も出土したことについて、「東大寺要録(平安時代)」に載っている「碓殿」(製粉所)とも考えられるという。奈良時代すでに石臼が日本にもたらされていた可能性を示している。*「碾磑 (テンガイ)」の項参照
to10  東福寺 京都市東山区にある臨済宗東福寺派大本山の寺院で、開山は聖一国師円爾である。東福寺によると、円爾弁円(1202〜80)は嘉禎元年〜仁治2年(1235〜1241)宋に渡航して「中国から多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与。また水力を用いて製粉する器機の構造図を伝えて製麺を興す」と伝えていて、今も素麺を供える行事が残っているという。
to11  豆腐つなぎ 江戸時代初期の寛永20年(1643)「料理物語」のなかに初めて蕎麦きりの製法について書いた項がある。「蕎麦切り」には「めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても 又とうふをすり水にてこね申事もあり・・・」とあって、早い時代から「そばをつなぐ」ことが大変だったことが窺える。「豆腐をすりつぶし、水を加える」とある。豆腐をくずしたのをつなぎとしてそば粉を練り上げたそば。
to12  同割り そば粉と割粉(小麦粉)の混合比率のことで同率のこと。すなわち一杯と一杯である。「蕎麦全書」の巻之下「蕎麦切屋のそば小麦粉を入る割の事」のなかにそば粉よりも割粉の方を多く入れているそば屋を引き合いにした例があって「小麦粉四升にそば粉一升を入るる也 四分一の割也」「割を多く入三分一にせり」などと当時の計量の実例を挙げている。
to13  灯篭がつく ソバの花の中にやがて多くの青い実ができ始め、その中のところどころに赤やピンクに染まった実ができる。この赤い実が「ソバの灯篭」で、赤い三角灯篭が出てくると「灯篭がついた」といった。(長野県北安曇郡など)
to14  戸隠神社
   戸隠そば
平安時代末からの修験信奉の大道場で中世最盛期には俗に戸隠三千坊と言われ、その後は奥院十二坊 中院二十四坊など五十三坊ともいわれた山岳信仰の戸隠神社がある。そば切りの歴史も古く、戸隠神社にまつわる伝統や宿坊でのそば切りも有名である。一本の麺棒に生地を巻き付けて転がし、引き戻す時に延し板に打ち付けながら丸延ししていく。この地域のそばの盛りつけは特徴的で親指と人差し指でそばをとり、半分置いて折り曲げ丸めるようにザルに盛るボッチ盛りである。戸隠神社の公式ホームページによると『戸隠のそば切りの歴史は江戸時代に始まった。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当をもてなす際、特別食として用意したのがそば切りだったと書かれています。』とある。また、奥院に残る宝永6年(1709)の「奥院燈明役勤方覚帳」には祭礼時に蕎麦切りが振舞われたと記されている。
to15  戸隠地大根 長野市・北信濃の戸隠村上野地区にある古くから在来の地大根で上野地大根ともいわれていた。辛さの中に甘味があるので「あまもっくら」ともいう。主として漬け物用品種として長く自家採種が行われてきたが、平成12年「戸隠おろし」の名称で種苗登録を出願。漬け物用品種、また、辛みが強いのでおろし用品種として期待されているという。
to16  時そば
  時うどん 刻うどん
古典落語に「刻うどん」という上方落語の演目があるが、三代目柳家小さん師匠が東京に移植して話したのが「時そば」である。二八そばを食べた男が十五文しか持っていなくて、「ひい・ふう・みい・・・ななつ・やつ・いまなんどきだい」で一文ごまかす「時そば」は有名な咄のひとつだ。
さらに余談だが、昨今、上方落語でも「刻うどん」とは書かれていないのが不思議で調べてみたら桂米朝師匠に行きついた。正しい説かどうかわからないが、ある時、若手の弟子が師匠に「刻うどん」の「刻」について尋ねたところ師匠が「刻 やったら きざみうどんやがな」とのことで、以来「時うどん」と書くようになったとの説があった。ほんとかどうかわからないが、ありそうな話でもある。
to17  土三寒六 昔から「うどん」を打つ時の口伝に、季節と塩水濃度についての指標があり「土三寒六(常五杯)」(どさんかんろくじょうごはい)という。土用(夏)は塩一杯に対して水を三杯入れて溶かした濃い塩水、寒(冬)は逆に六杯で溶かした薄めの塩水、常(春秋)だと五杯の水で溶いた塩水が良いという古くからの指標である。小麦粉を水で捏ねた生地は温度変化に敏感で、暑い夏は塩水濃度を高めて生地を締め、冬は濃度を低くして生地が硬くなりにくくすることを言い表している。すでに、江戸時代初期の「料理物語」にも夏と冬の塩加減のことがあり、「本朝食鑑」でも塩水について書いているので、古い時代からの製法の知恵であることがわかる。
to18  年越しそば 大晦日に食べるそばのことで、多くの地域で見られる伝統的な風習である。また、土地土地で違った呼び方もされる。大阪や京都周辺では「つごもりそば」とか「みそかそば」、東京で「みそかそば」、岡山県上道郡(赤磐郡)の「暮れそば」といった年の節目を指す表現と、東北の一部の「運そば・運気そば」、「歳とりそば」「大年そば」や「福そば」「寿命そば」など運や福、長寿など、さらには旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願う「年切りそば」や、回顧しながら食べる「思案そば」など様々であるが、全国的な共通語となるとそれらを総称してやはり「年越しそば」である。一方、年越しそばを食べない地域もたくさんあって、双方の地域が互いに隣接していたり混在している例もある。 *「年越そば」の由来については諸説ある。
to19  栃麺棒 渋抜きしたトチノ木の実を粉にして、米の粉や小麦粉と混ぜてそばを打つように作ったのが栃麺で、この時に使う麺棒を栃麺棒というが、栃の実の粉は粘り気が少ないので、麺棒をあわただしく急いで使う様子から、「うろたえ、あわてる」「面食らう」さらには「あわて者」などの意でも使われた。
to20  とちり蕎麦 歌舞伎の世界では、役者が台詞を忘れたり間違えたり、出番を間違ったりすると、自腹を切って共演者などに蕎麦を振る舞う習わしがある。舞台のとちり(失敗)の責任をとることから「とちり蕎麦」という。登場人物の多い「忠臣蔵の討ち入り」や「女暫(おんなしばらく)」の場面だと役者の懐は大変だが、いまはコーヒー券を配ることになっているそうだ。
to21  富倉そば 長野県飯山市富倉は新潟の県境に近い山深い地方で、ヤマゴボウをつなぎに使ってそばを打つ技法が伝わっている。つなぎに使われるヤマゴボウの葉は、キク科ヤマボクチ属の多年草でヤマゴボウ・ゴボウパ・ゴンボッパの方言のようにゴボウの葉によく似ている。干した葉を蒸して草餅に入れたり、干した葉をもんでもぐさ状にしたものをそばを打つ時のつなぎとして珍重してきた。特につなぎに使われるヤマゴボウの葉は、6月中旬に刈り取ったものだけを乾燥させて使い、このそばは冬の寒い時期でも冷たい水でさらしたのを食する慣わしだそうだ。*「オヤマボクチ」の項参照
to22  巴町砂場 江戸時代から続く「砂場」の一店。大坂の砂場が江戸に進出した年代やいきさつはわからないが、江戸時代からでは、麹町砂場が南千住の方に移って「砂場本家」を名乗り、久保町砂場は移転の後に天保10年(1839)巴町砂場を名乗って現在に至っている。昭和8年に砂場長栄会が結成され同じ30年に「砂場会」と改称している。平成23年の会員数は136店を数えるそうだ。
to23  友つなぎ そばを打つときのつなぎに同じそば粉(友粉)を糊にして使うこと。共糊(とものり)ともいう。そば粉の一部分をそば掻きの要領で薄い糊を作りこれをつなぎの代わりに練り込んで全体をつなぐ方法だが、重湯(おもゆ)のような薄いそば掻きを糊状になるまで手間を惜しまず作ることが大切で、十割そば(生そば)を打つときによく使われる。
to24  友粉 そばを打つ時の打ち粉に、同じそば粉を使うこと。普通、打ち粉にはソバの実の中心部分のサラサラの白く粗いハナコ(花粉・端粉)や時には細かいさらしな粉を使うことが多い。打ち粉の役割は、打ち台や麺棒に生地がつかず、包丁や切った麺がくっつかないように作業効率を良くすることにある。
to25  とやねからみ 長野県下伊那郡下條村親田地区の 親田辛味大根。来歴は明らかでないが正徳年間(1713〜)尾張家に献上されたという記録もあるという。蕪のような扁平の球形で甘みの中に辛味があるので「あまからぴん」とも。口に含んだ時はほんのり甘く、次に強烈な辛味が来る。白と赤があり、白い方を「ごくらくがらみ」、赤い方を「とやねがらみ」として品種登録されている。
to26  土用蕎麦 そば博士と言われた新島繁編著「蕎麦の事典」によると岡山県には蕎麦にまつわる言い伝えやしきたりが多い。例えば、吉備郡真備町では土用の入りに蕎麦練りを食べると腹痛をおこさないという「土用蕎麦」があるという。
to27  どよかん(土用・寒) そば屋の通し言葉のひとつ。注文を調理場に店内用語で伝達する言葉で、「どよかん」は「熱盛り」の注文に使われる。「どよかんで、もり二枚(土用・寒・もり二枚)」だと「土用は夏で暑い・即ち 熱盛り」「寒は冬で冷たい」のことで「熱盛りと冷たい盛り各一枚」となる。
to28  鳥南蛮 そば屋の定番メニューに、鴨南蛮やカレー南蛮などがある。鴨は大方は合鴨だが、これの代わりに鶏肉を入れたのが鳥南蛮で、かしわ南蛮ともいう。どういう訳かこの「南蛮」の読み方には東西の違いがあって、東では鴨なんばん・鳥なんばんなど「なんばん」というが、西の上方では鴨なんば・鳥なんばと言って「なんば」である。 もっとも「かもなん」「とりなん」などと略して「なん」とつまる場合は東西どちらも同じだ。
to29  とろろそば 「とろろ蕎麦」と「山掛け蕎麦」はいずれも、山芋をおろしさらにすり鉢でおろす。「とろろ蕎麦」は、ざるそばがベース。すりおろしたとろろに同量のそば汁と卵黄を入れたとろろ汁にざるそばを浸けて食べる。または、そば汁のほかにとろろを入れた小鉢、卵黄の三種を出して客の好みに任せる店もある。
もう一方の「やまかけ蕎麦」は、器にもったそばに少量のそば汁をかけ、そのそばの上に、すりおろしたとろろに三分の一量ほどのそば汁を入れてさらにすったとろろ汁をたっぷりと乗せて、卵黄を落としもみ海苔を掛ける。
山芋は、関東ではイチョウイモ、関西では丹波のヤマノイモ、奈良の大和イモなどと種類が多いが、もともとは山に自生していた自然生(ジネンジョウ)、自然薯(ジネンジョ)で各地の山で掘っていた野生のヤマイモのこと。
*「やまかけ」に同じ
     
 
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