[ い ] - そば用語の解説一覧 
                              【 そば用語辞典 】へ戻る      【 Top 】へ戻る  
      
i 44  伊江親方日々記
いえうぇーかたひにっき
琉球国・嘉慶18年(1813)文化10年頃の記述に琉球の新蕎麦と、その蕎麦で製した蕎麦切についての細かい状況が書かれている。著者は琉球国の重要な地位を務めた親方(うぇーかた)たという身分の有力士族で、琉球王や王子に蕎麦切を献上した様子や日常の蕎麦の食べ方にもふれている。当時の琉球士族の日常生活や士族間の公私にわたる交流、さらには当時の食生活や食文化までもがうかがい知ることができる第一級の史料である。
i 1  いかだ(筏)
   そば打ちの用語
そばを切った時に、包丁の切り通しが不十分であったり、柔らかい生地で小間開きが不十分であるなど、切ったそばの裏側(まな板に接していた側)が切り離されずに筏のようにつながっていて、茹でたときに麺がほぐれずくっついてしまう。原因が何であれ、打ち手としては恥ずかしい。
i 2  壱岐焼酎 長崎県の壱岐で醸造される麦焼酎の総称。「麦焼酎」といえば大分・福岡が有名であるが、その発祥は長崎県の壱岐焼酎といわれる。麦焼酎はくせがなく、温めても飲みやすいのでそば湯との相性も良い。
i 3  イクラそば
      腹子そば
イクラは腹子ともいう。三陸海岸や北海道などサケ漁の盛んな地域ではイクラ(腹子)をたっぷり乗せた「ハラコ飯」や「イクラ丼」を筆頭に「イクラそば」や「イクラうどん」を作り、その地域の郷土食ともなっている。サケの筋子を1粒ずつにばらしたイクラを生のまま乗せ、熱いかけ汁を張り半熟のところで食べる。または、ごく軽く醤油とみりんで漬けたり、軽く塩をしたものを使う場合もある。
i 4  池波正太郎 東京・浅草生まれ。昭和を代表する時代小説、歴史小説家。美食家としても有名で、その食通ぶりは鬼平犯科帳など作品のなかにも随所に現れているのだが、なかでも大の蕎麦びいきで、江戸時代の江戸の食文化とともにそば文化をも確かな時代考証でふんだんに描いている。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」「真田太平記」など多くの時代小説を発表している。
i 5  池の端・藪蕎麦 現在の藪蕎麦三家のひとつ。発祥は江戸・本郷団子坂にあった「蔦屋」が竹藪のなかにあり、そこの連雀町店を引き継いだのが神田・薮蕎麦の初代堀田七兵衛で、その三男が浅草並木町の並木薮蕎麦である。さらにその次男が昭和二十九年、上野池之端に店を構えたのが「池の端藪蕎麦」である。
i 6  石臼 石臼は上臼と下臼が対をなし上臼を回転させて粉を挽く。歴史的には奈良時代にはもたらされていたとされ、鎌倉末期の頃には「茶磨」という抹茶専用の石臼が用いられ、なかには粉を挽く石臼も現れていたとみられている。しかし、庶民への普及は江戸初期以降からと言われ、その後昭和の中頃まで多くの家庭でもみられた。
i 7  石臼挽き 手挽きと電動挽きがある。石臼挽きの特徴は、一分間に16回転〜20数回転などゆっくりと挽かれるので摩擦熱も少なく、粒子が不揃いで、風味が保たれ食感も良いとされる。一般的には、「挽きぐるみ」といって、玄ソバの外皮(殻)を取り除いて甘皮に包まれた状態の丸抜き(ヌキ)を挽き、粉の取り分けをしないまま挽きこんだ粉が主流になっている。元来は殻のまま挽き、それをふるって殻を取り除く方法で殻の除去が不十分で粉の色は黒かった。
i 8  石抜きと磨き 玄ソバを製粉する工程の重要な部分で、刈り入れした穀物には泥や小石、茎片や葉、他の植物の種子など夾雑物が付着混入しているのでこれらを完全に除去し、さらに、玄ソバの殻についている細かい泥やホコリをきれいに取り除いて、製粉時にそば粉に混ざらないようにする。このごみ取機や石取機などにかけ、研磨機で研磨する工程を精選工程という。
i 9  出石  出石そば 但馬出石(兵庫県出石町)の郷土そば。宝永3年(1706)に信州上田藩から仙石政明公が国替で入封したとき、またはその時に信州からそば職人を連れてきたのが始まりといわれている。そばの打ち方もこね鉢は石見焼きの深鉢を使かう。麺棒一本の丸延しは、巻き取って、ころがして広げ、生地を少し回してまた巻と取って転がすことを繰り返して一周させる。直径130cm程にまでして丁寧に畳む。昔は手小間で切っていたが現在は小間板を使う。現在では、出石焼の小皿に盛りつけ5皿で一人前だそうだが、大体は男10皿・女7〜8皿くらいは食べるという。薬味5種 大根下ろし・山芋・卵・ネギ・ワサビで、鶏卵はそば猪口のダシにといて食べる。
i10  和泉屋 いづみや 「砂場」の発祥は大坂で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」「いづみや」というそば屋で、大坂城築城の砂や砂利置き場であったことから通称「すなば」と呼ばれるようになった。寛政10年(1798)刊行の「摂津名所図会」に「砂場いづみや」の図がある。暖簾は「す奈場」と染め抜かれ、立派な店構えが描かれている。図の2枚目にはたいそう繁盛している店内の様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などから、とてつもない規模であったことが窺える。今ひとつ、「そばを打つ」という観点から興味深いのは、何人もの職人が並んで同時進行でしかも立った姿勢でそばを打っている。浪速の新町で江戸期を通じて繁盛した名店であったが、残念ながら明治に入って10年ほどの後に姿を消した。
i11  出雲 出雲そば 島根県出雲地方の郷土そば。寛永15年(1638)に松本藩から松平直政公が入封した時に伝わったとされている。殻ごと挽きぐるみした粗いそば粉を使い、黒くて香りが強く太めが特徴。十割で打ち、太い麺棒に巻いて一本で丸延しする。いまは、最後に四つ出しをするのでこの時は麺棒3本を使う。小間板を使わず手ごまで切るのが基本という。「割子(わりご)そば」が有名で、朱塗りの丸い割子に小分けして盛られ、三段重ねで一人前。大根おろし、またはもみじおろし、海苔、ネギ、はなかつお、などを薬味にして、だし汁をかけて食べる。また、「割子そば」の他に「釜あげ」も出していて、茹でたての十割そばをそば湯と一緒に盛り薬味をのせ、割子のだし汁をかけて食べる。
i12  出雲おろち大根 島根大学生物資源科学部の「出雲産の新しい農産物を作りだす」プロジェクトで生み出した辛味大根の新品種。島根半島の浜辺や宍道湖畔に自生するハマダイコン(野生種)を島根大学の圃場で2003年から選抜育種したもの。とても辛いが、甘味も含み、薬味に適している。命名はヒゲ根の多い形状から八岐大蛇(やまたのおろち)を彷彿させることからという。
i42  出雲国産物帳
   出雲国産物名疏
松江藩が元文元年(1736)に編纂した出雲国産物帳に、蕎麦の品種についての記述がある。 「蕎麦  イラタカ大ソハ共申候 小ソハシナソハ共申候  カドソハ 餅ソハ 米ソハ シナノ ハナタカ」 とあり7種が記録されていて、蕎麦はイラタカともいう大粒と小粒蕎麦ではシナソハというのが主たる品種だったことがわかる。他に、カドソバ以下5種が挙げられていてシナノのみ信濃(由来種)と推測される以外は正確には判じがたい。
別に、隠岐国産物帳のなかには隠岐国の蕎麦として「わせ(早生)そば おくてそば」とのみ書かれてあり、現在の品種からいうところの夏型、秋型のように播種期をずらしていたと解せられる。
i13  出雲全国そばまつり 陰暦十月の島根県・出雲は神在月(神々が出雲に集結するので、全国各地は神無月)。毎年10月に「神在月出雲そばまつり」が出雲文化伝承館などで開催される。毎年三日間、県内・外のそば店も多く出店してそばの味を食べ比べて賑わう。
i43  出雲 蕎麦切の初見

   江戸参府之節日記
島根県立古代出雲歴史博物館が2015年10月に「出雲そば」最古の記事発見と発表した。引用すると、「佐草自清の日記で、寛文6年(1666)3月27日、出雲大社の造営工事が進むなか、佐草は、松江において、松江藩寺社奉行・岡田半右衛門の役宅で、本殿の柱立の儀式の費用ほかについて協議。日が暮れたところで蕎麦切の振る舞いがあった。」と記している。

佐草自清は出雲有数の出自と名家である。寺社奉行が大社一行との協議に丁寧にのぞみ「蕎麦切」までも振舞ったという記録であろう。古文書の部分「今日ハ、御柱立談合ニて日暮、蕎麦切振舞、五郎佐殿佐左居られ申し候」
i14  伊勢うどん 「伊勢うどん」という呼称は昭和40年代後半に統一されたものだが、昔から三重県伊勢の地域で食べられていたうどん。特徴は柔らかく煮た太いうどんに黒くて濃厚な出汁(たれ)をかけ、薬味はネギといった質素なもの。濃厚な出汁のベースはたまり醤油。各地にはいろんなうどんと、うどん出汁があるが、ここのはかなりイメージが異なる。伊勢神宮の参拝客に供されてきた名物うどん。
i15  磯切り 海苔をさらしな粉に練り込んだ変わりそば。「海苔切り」のことで色は黒。海苔をあぶった粉末を篩い、さらしな粉に練り込む。変わりそばの「黒」は海苔のほかに「胡麻切り」もあるが、どちらの材料も粉になじまずつながりにくく、そばを打つのが難しい。
i16  板垣大根 福井市板垣で 古くから栽培されてきた辛味大根。細根の中央部分がやや太く、甘味と辛味の調和が特徴という。 越前おろしそばの大根おろしにも使われているが、近年では青首大根に辛味大根を少し加えてさっぱりとした味を出すのが主流になってきているのだそうだ。
i17  板そば もともとの山形のそばは粗野で香りの強い田舎そばが身上で、「板そば」は3〜5人前の黒くて歯ごたえのある太いそばを長方形の杉の箱板にならすように平たく盛っている。近年、最上川沿いにそば屋が建ち並びそば街道と名付けられるようになったが、大半が「板そば」である。秋田杉の板で、山形市など内陸部では「へぎ」、庄内地方では「そね」と呼ぶ。
i18  板屋一助 小浜の町民学者・板屋(津田)一助が著した「稚狭考」明和4年(1767)に「大根の汁にて麺を喰うを丹後、但馬、丹波にて若狭汁といへり」とある。さらに、大根について「西津は淡し、勢井は辛し、熊川は煮て宜しからず、青井は辛くて甘く煮て殊によろし、比三村の大こん麪に用ひてよし。」など、大根を麺に使ってきたことがわかる。信濃・高遠の大根汁に味噌を加えてそばつゆとする「そばの辛味汁」や「会津の高遠そば」さらに越前のそばの食べ方など、すべて大根の絞り汁という古い時期の共通性が窺える。
i19  一斤(いっきん)  近年、ほとんど使われなくなった「そば屋の用語」。一人前とか一枚、一杯などに相当する「そばの分量」で一人前を「一斤」大盛りだと「一斤半(イチハン)」とか「二斤」である。現在でも、主として熱盛そばを品書きにしているそば屋が使っている。*斤(きん)参照。
もともと計量単位のひとつで、そばの「斤」とは異なるが、現在でも食パンの単位として「斤」が使われている。「食パン・一斤」
i20  一升星 古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも貴重な存在であった。ことに昴(すばる・すまる)はその高さでそば蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。「すばるまんどき 粉一升」(長野・山梨)や「すまるまんろく粉八合 頭巾落しの粉一升」(岡山)は、「すばる」が南中したときが「まんどき」で、夜明け方に南中したときにそばを蒔くともっともよく実り、一升の実から一升の粉が取れるという俚諺である。すばるのことを一升星ともいう地域もある。
i21  一茶 小林一茶の故郷は信濃国水内郡柏原村で雪深い里である。この一帯は、良質のソバが穫れることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育った。五十歳で再び故郷に戻り文政10年(1827)六十五才の生涯を終えている。その発句(俳句)はおよそ二万句とも言われ、その中に33句とも35句ともいわれる蕎麦を詠んだ句を残している。
i22  一茶忌 俳人小林一茶の命日は文政10年(1827)陰暦11月19日で、昭和26年に125回忌が菩提寺の明専寺でとりおこなわれ、これを機に、一茶忌として法要とともに俳句大会が恒例行事として行われるようになった。その後、昭和50年代には昼時に地産の霧下そばの新そば振る舞いが行われるようになり、大勢が立ち食いで打ちたてのそばを味わうことでも有名になった
i23  一膳八文
壱せん・そば切・八文
「絵本御伽品鏡」という絵草紙に、大坂の名物風俗を描いた享保15年頃(1731)の蕎麦切屋の店先風景がある。その置き行燈(箱看板)に「壱せん・そば切・八文」(一膳八文)とそばの値段が書かれている。そばやうどんの値段は、江戸や上方では 1750年頃(宝暦・明和の頃)までは六〜八文くらい、そしてしばらくは十二文〜十四文、1790年代(寛政)から文化・文政・天保(1804〜44)にかけて十六文が定着して行き、幕末頃まで続く。
i24  一杯一杯 そば粉とつなぎ(小麦粉)の割合のこと。江戸時代、「蕎麦全書」のなかにそば粉よりも割粉の方を多く入れているそば屋を引き合いにした例があって「小麦粉四升にそば粉一升を入るる也 四分一の割也」「割を多く入三分一にせり」などと当時の計量の実例を挙げている。江戸時代後期の商いで、同割りとか一杯一杯などと言ってそば粉とつなぎの量が同じというケースも多かったようだ。
i25  一鉢二延し三包丁 そばを打つ工程の難易度をもっとも簡潔に言い表したことば。一鉢、すなわち一番難易度の高いのは木鉢の工程で、この作業具合で打ったそばの良し悪しが決まってしまう。次に延しで、華やかに見えても包丁が三番目である。このことを心に留め置けというそば打ちの戒めである。「包丁三日 延し三月 木鉢三年(一生)」ともいう。
i26  一番粉 ソバの実を粗挽きして篩にかけると、「ソバ殻」、「(殻がとれた)丸抜き」、「(大きく割れた)上割れ」、「小割れ」、「花粉」に選別される。このなかの「割れ」と「丸抜き」を挽いて篩うと白い中心(内層)部の「一番粉」(ロール製粉の場合は一番ロールを通って篩われた粉)がとれる。残ったのを挽いて篩うと「二番粉」で、同様に「三番粉」である。 内層粉は白くてでんぷん質が多く、そばの香りに乏しいがのど越しや口当たりが良い。これに対して、外皮(表層)になるにしたがってタンパク質が多く、色も濃くそばの香りや栄養価も高まるが、食感では劣るというそれぞれの特徴がある。これらの特徴と性質をどのように混合するかが、「そば粉」の課題であるともいえる。
i27  一番だし 昆布や鰹節で一番最初にとった出汁のこと。日本料理屋の「一番だし」は水に昆布を入れて沸騰したら取り出し、薄削りの鰹節を入れてすぐに火を止めてだしをとる。そば屋の場合は厚削りの鰹でとるので長時間煮出してとる(昆布も使う場合もある)。「二番だし」はどちらも同じで、一番出汁をとった後に水(お湯)を入れてもう一度煮出したものをいう。日本料理では「一番だし」は、主として吸い地(椀物の汁)に用い、「二番だし」はみそ汁や煮物のだしなどに使われる。そば屋の場合は「返し」を一番だしでのばしてざるやせいろの「つけ汁」にする(関東では「辛汁」という)。さらに、この「つけ汁(辛汁)」に二番だしを加えて2〜3倍にのばしたものを温かいかけそばや種物に使われる(関東では「甘汁」という)。
i28  一本うどん 村瀬忠太郎著「蕎麦通」には「一本うどん」というめずらしいうどんを書いている。「昔、深川浄心寺の前のヤホキといううどん屋は一本うどんだけを売っていて、これが暖簾名となったほど有名であった。太さは親指ぐらいあって丼の中に白蛇がとぐろを巻いているように入れてある。」と。
池波正太郎はそば贔屓で、鬼平犯科帳にはそば屋ばかりが登場する。その中でめずらしくうどん屋を登場させているのが「一本饂飩の豊島屋」で「親指ほどの太さの一本うどんがとぐろを巻いて盛られたやつを、柚子や擂胡麻、葱などの薬味をあしらった濃目の汁で食べる・・・」とある。
i29  一夜そば この言葉は新島繁編著(柴田書店)「蕎麦の事典」に載っていて「そばは打ってからひと晩おいて食べるのがおいしいということから、言われる言葉(香川県綾歌郡綾南町小野)」とのみ解説している。この辞典が出版された平成11年(1999)にはすでに「三立て(挽きたて・打ち立て・茹でたて)」というそばの用語が出現している一方でこの言葉も掲載されている。近年、そばは「三立て」が美味いとされ、打ち立てを重視するなかで、香川県綾歌郡綾南町小野では、打ったそばを「一晩おくと熟成されてうまい」とされていたことがわかる。同様に、最近「熟成そば」という言葉があって、そばは打ってから一晩くらい置いた方が熟成して美味しい、さらには、二日くらい熟成させるなど、聞くことがある。*「(そばの)三たて」の項、「熟成そば」の項参照
i30  芋焼酎 そば湯割りでは、焼酎にさほど慣れていなくても、蕎麦・麦・米などはクセを感じさせないで風味と味を醸し出してくれる。一方、芋焼酎の場合は、飲み慣れない向きには味と香りに独特の個性があるので多少のとまどいを感じるかも知れないが飲み慣れればそれこそクセになる芳醇な風味が特徴である。
芋焼酎は、南九州で広く栽培されてきたサツマイモと米麹でつくられる伝統的な本格焼酎でもともと鹿児島県や宮崎県南部の地酒であった。また、これらの地域で酒といえば焼酎のことをさし、宴席でも焼酎が主役で「生の芋焼酎」が入った銚子と「湯で割った焼酎」の銚子を色で区別して出される。いうまでもなく日本酒は特注で頼まなければ出てこない。鹿児島産の芋焼酎は薩摩焼酎という。
i31  芋つなぎ 自然薯は昔からすりおろしてつなぎに使われる。粘りが強すぎるのでそば粉の一割の自然薯と四倍の水で溶く方法などが使われる。つくね芋や銀杏イモ、ときには里芋も使われる。*「ヤマイモ」の項参照
i32  伊吹蕎麦
   伊吹山
滋賀県・伊吹山のソバは有名で本朝文選(1706年)では、元彦根藩士で芭蕉十哲の一人・森川許六は「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む」と述べている。寛文8年(1668)の伊吹山絵図でも八合目付近までソバ畑が広がっており、明治の物産誌によると、(伊吹山中腹にあった)伊吹村太平寺では耕地の半分がソバ畑で24石4斗5升を産出したとある。(伊吹町史 通史編より)
i33  伊吹大根 伊吹山の麓、坂田郡伊吹町大久保地区産の辛味大根。古くから存在が知られ、「峠の大根」としてこの地の名産品。独特の甘味と辛味、小型で尻づまり、茎の部分が少し紫色。土中に浅いので蹴って掘り起こすので「けっから大根」とも、鼠大根や蝮大根(まむしだいこん)と呼ばれる事も。石灰質の土質:この地以外では辛味を生成しないとも。*けっから大根・峠の大根・鼠大根や蝮大根の項も同じ。
i34  田舎そば 「田舎そば」または「山家そば」ともいう。他のそばと差別化するために、田舎や山家という言葉のイメージから「挽きぐるみの色の濃いそば粉で打ったそば」や「噛みごたえがあり甘みと香りの強いそば」などで、おおくは太いそばである。そば屋の店名であったり、そば屋の品ぞろえ(並と田舎など)というふうに店によって趣向が異なる。
i35  稲荷そば 油揚げをのせたそば。きつねそばのこと。大阪ではそばに油揚げを乗せると「たぬき」。東京ではうどんでもそばでも油揚げを乗せると「きつねうどん」「きつねそば」。
i36  芋川うどん 愛知県の「芋川うどん」「ひもかわ」「平うどん」は、寛文元年(1661)の「東海道名所記」や、弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」、さらに、井原西鶴の「好色一代男」(1682)にも登場する街道一の名物となっていた。東海道芋川宿で作られた平うどんがひもかわとなり、後に「きしめん」といわれるようになったという説もある。
i37  稲庭うどん 秋田県湯沢市稲庭町に始まったという稲庭うどんは、慶長年間(1596〜1615)に始まり、寛文5年(1661)に秋田藩御用となっている。昔ながらの手練りと手綯い(てない)の干しうどんの製法は現在でも引き継がれている。製法は素麺と同じだが引き延ばしに油を使っていないのがこの稲庭うどんと、宮城県白石市の九センチ程の短い「うーめん」で、いずれも素麺より少し太めである。北陸では富山・氷見の江戸中期に始まった「氷見糸うどん」は、素麺の技法からの手延べ天日干しである。
i38  祖谷そば 四国の徳島県には落人伝説の伝わる秘境の祖谷地区がある。郷土料理としての祖谷そばとそば米雑炊がある。祖谷そばは太めでつなぎは入れない。薄口のジャコ(イリコ)のだしでかけそばで食べる。昔から、そば切りは行事食として振る舞われ、一杯食べ終わるとまたそばを入れて次から次に食べさせる風習も残っていた。秘境として知られた峡谷は米がとれず、昔からソバを米に見立てて重宝した土地柄で民謡に「祖谷の粉挽き唄」がある。
i39  色ひいな形 宝永8年(1711)に上方浮世絵の第一人者・西川祐信が描いた笑い絵(春画)「色ひいな形」の巻五・商職風のなかに、そば屋で職人が立ってそばを打っていて、その二階に逢い引きの場面が展開している。この絵の特筆すべき点は、江戸時代の比較的早い時期に京都のそば屋で「立ってそばを打つ姿」が現れていることである。おそらく、立った姿勢でそばを打っている図としてはこれが最も早いのでなかろうか。古い時代の麺類屋の看板ともいわれる「招牌」も描かれている。
i40  色物 江戸時代の半ばに「変わりそば」が登場するが、その中でも色があざやかで見た目も楽しめるものを「色物」といって区別している。さらしな粉に混ぜものを入れてそばを作るが、代表的な例をあげると、ひとつのせいろに「白・赤・緑・黒・黄」を盛り分ける五色蕎麦がある。さらしな粉で打った白、海老切りの赤、茶そばの緑、胡麻切りの黒、卵切りの黄の五色である。この他、桜切り、草切り、木の芽切り、紅切り、菊切り・・・四季折々にあわせたものも多い。
i41  飲食事典 本山萩舟著・昭和33年平凡社から出版。昭和初期の「大百科事典」と戦後の「世界大百科事典」を集大成したもの。その中に「江戸の初期に奈良の東大寺へ来た朝鮮の僧・元珍が、そばのツナギに小麦粉を入れることを教えた」としている。但し、出展を書き記していないので評価が割れるところである。
     
 UP