[ は行 ] - そば用語の解説一覧 
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ho 1  ハイカラ
    ハイカラうどん
明治の終わりから昭和初期に「ハイカラ」といって西洋風で目新しいというような新語が大流行した。天ぷらを揚げたときの天かす(揚げ玉)を乗せた種物を近畿地方では「はいから」といってそばやうどんにも「ハイカラそば」や「ハイカラうどん」が出現した。一時期、近畿圏の駅うどんにもハイカラうどんを置く店があったが、薬味のネギとともに天かすも器(うつわ)に常備され、客が自由に入れられる仕組みが増えるにしたがってメニューとしては見られなくなった。
ho 2  灰原辛味大根 長野県千曲市(更埴市)稲荷山や長野市塩崎地区に古くから産する地大根。来歴は明らかでないが、平成になって灰原地区で栽培を始めこの名前を付けた。 「おしぼりうどん」のつけ汁用として用いたりおろしやたくあん漬けとして利用される。辛く、甘みは少ない。
ho 3  はうとう   ばうとう
     (ほうとう)
室町時代の初め(1336~)には素麺(索麺)やうどん(饂飩)とともに「碁子麺」や「はうたう・ばうたう」(ほうとう)がいくつもの文献に登場する。ただ、この時代に登場する碁子麺は、小麦粉をこねて竹筒で碁石の形におし切り、ゆでて豆の粉を振りかけたもので、現在名古屋地方の平打ちうどんの棊子麺とは異なる。
「はうたう・ばうたう」(ほうとう)についても、現在の山梨県を中心とした地域で作られる味噌仕立ての「ほうとう」とは異なるが、岩手県地方の「はっと」「はっとう」、熊本や大分・宮崎などの「ほうちょう汁」「だごじる」「やせうま」などもふくめあきらかに古い形をとどめた一種の麺に発達する過程の食べ物だったとも考えられる。
ho 4  配合割合説
   配合比率説


       「二八そば」
江戸時代から議論になっている「二八そば」の語源の主たるものには、価格説 (二×八=十六文)と配合割合説がある。そば粉が八割でつなぎの小麦粉が二割の意味だとするのが配合割合説だが、はたして江戸時代の早い時期に、粉の総量を十割としてそれに対する二割を小麦粉にし、八割をそば粉で計量する現在的な配合計算をしたとは考えにくい。さらに、小麦粉(と塩)だけで作られるうどんにも「二八うどん」が登場していて、ここには粉の配合は存在しないのである。「二八そば」の語源は「二八うどん」の語源にも共通する必要がある。
ho 5  馬鹿釜 そば屋の茹釜(そば釜)に対して、一般的な炊飯用のような構造の釜をそば屋では「馬鹿釜」といった。このような釜は、底の中央部に火が当たり、湯の対流は中央部から四方に広がるので、そばが絡んだり切れやすくなる。そばを茹でる専用の釜は、底の中央から外れた場所に局部的に火をあてる構造になっていて、湯が返り対流がおきるように作られている。
ho 6  博多ラーメン 各地のご当地ラーメンにはそれぞれのルーツにまつわる話がつたわっているが、博多ラーメンも同様である。とくに「とんこつラーメン」の発祥は久留米だとする説もあるが、白濁した豚骨スープが博多ラーメンの特徴であるといえる。麺はストレートの細麺で、「替え玉」の仕組みも早くからあった。紅生姜と高菜の油いためのトッピング自由の店が多い。
ho 7  餺飥(ハクタク) 平安時代の唐菓子の一種。索餅(さくべい)とともに餺飥(ハクタク)も「めん」の祖先らしきものだとされている。小麦粉を練って切ったもので、ほうとう(はうたう・ばうたう)などの読み方もあるとされている。
ho 8  白濁豚骨スープ 博多ラーメンのスープの特徴。比較的淡泊な白濁スープが主流であったが、濃厚なスープの店も増えている。
*「博多ラーメン」「長浜ラーメン」の項参照。
ho 9  箱入り娘
   のごとく扱う
福井県麺類生活衛生同行組合のサイト「奥越大野に伝わる蕎麦にまつわる風習」によると「昔からそばの粉は、「箱入り娘」のごとくと言って、外に出す際はすぐ風邪をひくので、どんなに忙しくても、取り扱いはその家の主人が行ったそうな。」とある。いつの時代も、そば粉の保存に細心の注意を払って扱ってきたかがきわめて具体的にわかる話である。
ho10  箸袋(関西版) そば屋で割箸(当時は引裂箸)が使われるようになったのはせいぜい文政(1818~)の頃あたりで、それまでは竹の丸箸かせいぜい杉の角箸あたりだったようだ。そば屋が箸袋を使用するようになるのはさらに遅れるが時期は判然としない。もともと箸袋は上流階級のもので、室町時代の料亭などでは祝膳の箸を紙で包んで出すようになって、それが江戸時代に徐々に定着していくが庶民への普及は江戸の後期である。
ho11  長谷川平蔵 鬼平犯科帳ではいろんな飲食の店が登場するがなかでも蕎麦屋がいちばん多い。そして必ずといってよいほど酒がでる。探索のための見張りの間合いをもたす目的もあるからだが、むしろ蕎麦そのものよりも酒が主役のようでもある。長谷川平蔵は歴史上の実在人物で、延享から寛政(1744~1801年)はまさしく江戸時代の中期であり、江戸の食文化が開花し始めた転換期にあたる。池波正太郎の食通ぶりと蕎麦好きは有名で、鬼平犯科帳のなかにもそれが随所に現れていて、確かな時代考証でふんだんに描いている。
ho27  バチ汁 播州地方(兵庫)の家庭料理。この地域は手延べ素麺の揖保乃糸(いぼのいと)が特産で、そうめんを作る際に出る棒にかかった両端の曲がった部分の切り落としが、三味線のバチに似ている。先に大根やニンジンなどの細切りした野菜や油揚げなどをだし汁で火を通してからバチを入れてさっと煮たてる。もともといくらかの塩分があるので薄めの味に仕立て温かく食べる。この地域の淡口醤油をつかったすまし汁とか味噌汁にする。
ho12  跋刊
   刊行   脱稿
江戸時代のそば(蕎麦)に関わる史料を代表するのは、料理物語、本朝食鑑、蕎麦全書といえる。そして「料理物語」は寛永20年(1643)跋刊、「本朝食鑑」は元禄10年(1697)刊行、とあって「蕎麦全書」は寛延4年(1751)10月脱稿とある。さほど関係のないことだろうが、それぞれ世に出たかたちが「跋刊」、「刊行」、「脱稿」となっていて異なる。その意味を調べると、料理物語の「跋刊」は奥書の跋(あとがき・くくり・おわり)に「寛永二十癸未暦極月吉日」とある。本朝食鑑の「刊行」は出版や発刊と同じで書籍などを印刷して世に出すこと。蕎麦全書の「脱稿」は原稿を書き終える。また、草稿が出来あがること。
ho13  はっと  はっとう 代表的な例は、岩手県地方の「はっと」「はっとう」で、「あんずきばっと」や「柳ばっと」、山梨の「ほうとう」、熊本や大分・宮崎などの「ほうちょう汁」「だごじる」「やせうま」などがある。岩手のはっとは、そば粉を水でこねて寝かせ、小さくちぎって形を整える。山梨の「ほうとう」という言葉を遡ると「はうたう・ばうたう」に通じ、早い時期から記録に登場する。「ほうちょう汁」も戦国のキリシタン大名・大友宗麟が豊後国領主の時、大飢饉の飢えをしのぐために食べさしたのが始まりだとする説がある。大分では「ほうちょう汁」と、このほうちょうをキナ粉と砂糖でまぶした郷土料理の「やせうま」がある。熊本の「だごじる(だんごじる)」は手で延ばす方法と延ばして切る方法がある。
ho14  花番 そば屋の職制に関する呼称で、注文を聞いたり、それを調理場に通したりする役。多くは女性で、通し言葉を使い、店内の状況を把握しながら差配する立場でもある。 客が店に入って初め(はな→端)に目にするところに構える女性で「はな番→花番」とも。ちなみに、そばを打つ役割は「板前」、釜の前にいて茹でや盛りは「釜前」、調理場で種ものを整えるのは「中台」、以上が主たる役割である。
ho15  幅だし そばを打つ時の「延し」の幅を決めること。四出しで正方形になった麺生地の一辺の長さを決めることで、この時点で切るそばの長さも決まる。すなわち、この幅の四分の一が切った時の麺の長さになるので、この決めた横幅の長さは延し終えるまで変わらない。それに対し、縦に延す長方形の長さは、変わることによって麺生地を薄く延すことが出来る。
ho16  早蕎麦 長野県下高井郡山ノ内町や下水内郡栄村などに伝わる大根とそば粉の郷土食。茹でた千切り大根に水で溶いたそば粉をからめたもので、大根のシャキシャキ感と水で溶いたそば粉ののどごしが早蕎麦の特徴。この地域には焼畑で作った刈野ダイコンや刺身ダイコンといわれる美味い大根が採れたこともあって、手軽にできる日常の食として伝承されてきた。
ho17  腹子そば
    イクラそば
腹子はイクラのこと。三陸海岸や北海道などサケ漁の盛んな地域ではイクラ(腹子)をたっぷり乗せた「ハラコ飯」や「イクラ丼」を筆頭に「イクラそば」や「イクラうどん」を作る。その地域の郷土食ともなっている。サケの筋子を1粒ずつにばらしたイクラを生のまま乗せ、熱いかけ汁を張り半熟のところで食べる。または、ごく軽く醤油とみりんで漬けたり、軽く塩をしたものを使う場合もある。
ho18  ハリコシ 「梁越そばまんじゅう」と呼ばれる熱い灰の中で焼いた蕎麦餅のこと。長野県南佐久郡川上村の郷土食。お椀に入れた蕎麦掻きをそば粉をまぶしながら、家の梁を越すほど高く放り上げ、落下するのを椀で受け止めるのを繰り返す。これを炉端か熱い灰に埋めて焼き上げ、甘味噌やゴマ醤油をつけて食べる。*以下は、島崎藤村の「千曲川のスケッチ その六 山村の一夜」から抜粋した。「・・・その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。草鞋穿で焚火に温りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。」
ho19  張札(値札) 張札(はりふだ)はいろんな使われ方や意味があるが、一般には、人々の目にふれるところに、紙や板に書いて貼りだす掲示の札。一般的には、告知すべき事柄を通行人などに知らせるために貼りだす紙や板。秋口になるとどの地域のそば屋にも「新そば入荷」の書き出しがでるがこれらも一種の張札といえる。
ho20  春まきソバ わが国のソバの品種は長日反応の違いによって夏型・秋型・中間型のいずれかに分類されている。また、播種期(種まき)と収穫期で大まかにみると、北海道では6月に蒔いて9月に収穫し、列島を南下とともに遅れて、九州では8月に蒔いて11月に収穫する。これに対し、近年、温暖な気候を生かして4~5月に蒔いて初夏に収穫する試みが熊本、大分、鹿児島でおこなわれている。春まき栽培の事例である。さらに、ソバの栽培の歴史がない沖縄では、播種を3月にして5月に収穫する取り組みが始められている。*「春のいぶき」の項、「沖縄とソバ」の項参照
ho21  春のいぶき 春型のソバの品種。九州沖縄農業研究センターが、春播き栽培に適したソバの試験栽培に取り組んで開発された品種。青森県階上地方の在来系統から選抜された「階上早生」をさらに選抜を繰り返してできた品種で、九州の温暖な気候では3月下旬~4月上旬に播種して5月下旬~6月上旬に収穫することができる。九州地域の春播き栽培に適していることから2007年に「春のいぶき」と命名した。
ho22  春焼き 焼畑は、その地域や地形さらには山の高低や日照条件などによって「春焼き」と「夏焼き」に分けられる場合が多い。いずれも焼いた初年目にはそれに適した作物を蒔き、2年目、3年目とそれぞれに適した作物に変えながらおおよそ4年から5年くらいを一区切りとして終える。その後は再び草木のはえるままに放置して自然の山に戻し、地力の回復した10年、20年後再び焼畑として用いている。草木を焼いた灰にはリン酸やカリ分を含み肥料効果もあり、「ソバは灰が熱くてはぜるうちに蒔け」などという言い伝えもある。
ho23  ハレの食べ物 ハレ(晴:=非日常)とケ(褻:=日常とか普段)で、ハレの食は儀礼や行事などあらたまった時の食べ物のこと。現在では実感しにくいが、うどん、そば、ホウチョウ、餅、団子、強飯、赤飯、小豆餅、小豆粥、おはぎ、雑煮などがハレの食べ物とされた。特にうどんやそば切り、団子などの粉食がハレの食べ物とされてきたことについて「柳田国男の民俗学」を引用すると、「粉食がハレの食物とされるゆえんは、一つには、その加工に多くの手間がかかり、大量には作れず、しかもその保存に日本の風土は適していなかったために、貴重品であった。」としている。
ho24  番匠作事日記 長野県木曽郡大桑村須原にある常勝寺の古文書。天正2年(1574)2月10日からの仏殿等の修理の際の振る舞いや寄進に関する書き留めの中に「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」と「振舞ソハキリ 金永」という記述が見いだされ、これが現在のそば切りの初見である。それまでの「そば切り」に関する最も古い記録とされていたのは、近江・多賀大社の(尊勝院)慈性が遺した「慈性日記」で、慶長19年(1614)2月3日の条で「江戸の常明寺へ行きソバキリを振る舞われた」という記述であるとされていたのでこれを一気に40年遡ったことになる。
ho25  半生返し そば汁を作る際の元汁を「返し」といい、これに「だし」をあわせて「そばつゆ」などを作る。「返し」のとりかたのひとつの方法で、砂糖を溶かす分だけの醤油を加熱して、それを醤油に入れる方法を「半生返し」という。醤油と砂糖を合わせて加熱する場合を「本がえし」、醤油に水で溶かした砂糖を加えて加熱しないものを「生返し」、いずれも、とった返しは「ねかす」ことによって角をとってまろやかにする。*「返し」の項参照
ho26  半田めん 阿波(四国・徳島県)の半田そうめん。天保(1830~)の初め、吉野川を運航していた平田船(ひらたふね:帆船)の船頭が自給用と副業としたのに始まり、その後商業化された。この素麺は1.4~1.6mmと太いのが特徴で、船頭が自家消費用で始めたのに由来すると伝わっている。
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hi 1  挽きぐるみ 玄ソバの外皮(殻)を取り除いて甘皮に包まれた状態の丸抜き(ヌキ)を石臼で挽き、粉の取り分けをしないまま挽きこんだもので挽きぐるみという。
以前は玄ソバの殻が付いたままを挽き、それをふるって殻を取り除く方法であった。この場合は、殻が完全には除去できずに粉の色は黒く、食感もぼそつくが栄養価は高かった。現在では、これらが混同されているが、全種子を丸ごと製粉したものを「全層粉」ともいっている。
hi 2  ひきそば 群馬県利根郡片品村に伝わるそばの切り方。長さが80cmほどで太さ5㎝の桐の麺棒で丸出ししたそばを半切りして数枚重ね、菜切り包丁を手前に引いて切るところから「ひきそば(引き蕎麦)」という。有名なのは、尾瀬をはさんで反対側の福島県南会津郡檜枝岐村の「裁ちそば」で、小さいそば玉を太くて短い麺棒で丸く延し、十割で切れやすいので生地は畳まずに数枚を重ねて布を裁つように切る。小間板を使わない。布を裁つように切ることから「裁ちそば」。
hi 3  東素麺屋町 素麺が地名になっている例がある。山梨県身延地区には西素麺屋町や東素麺屋町があり、広島県三次市には下素麺屋一里塚という地名も残っている。素麺は古くから朝廷や貴族、または寺社を背景にした素麺供御人や素麺座が形成された。なかには荘園領主や寺領の供御年貢を取り扱う任務を請け負う「素麺屋」が登場した例もある。*西素麺屋町も同じ。
hi 4  びっくり水 「差し水」ともいう。そばを茹でるときに、湯が吹きこぼれそうになった時に入れる水。いったん沸騰が弱まり再沸騰する間に芯まで火が通る。乾麺などの茹で時間が長い場合に効果的な処置といえる。ただし、短時間で茹であがる手打ちそばの場合は差し水(びっくり水)はしない。吹きあがりそうなときは火力の調整で吹きこぼれを防ぐのがコツになる。
hi 5  久好茶会記

     松屋会記
茶湯や茶会の覚え書きが残されたのが「茶会記」で、そのもっとも古いのが「松屋会記」である。奈良転害郷に住む塗師松屋家の久政・久好・久重の三代によって天文2年(1533)から慶安3年(1650)までの約120年書き継いだ大記録である。この中の、二代目久好茶会記に、元和8年(1622)12月4日の奈良・郡山城での記録があって「そば切り(ソハキリ)」が登場する。「そば切り」が登場する史料の中でもその当時の実録としては、天正2年(1574)の木曽・定勝寺が全国の初見であり、慶長19年(1614)には慈性日記に書かれた江戸で、これに続く第三番目が奈良・郡山のこの茶会記である。*「松屋会記」の項参照
hi 6  飛騨蕎麦 岐阜県北部の飛騨地区は山に囲まれた高地で昔から良質のソバを産した。江戸中期の記録によると、延享2年(1745)の「飛州史」には、わらび粉をつなぎにしてそばを打ったとある。天明3年(1783)刊行された「飛州産物狂歌集」に載っている飛騨地方の産物のなかに阿多野蕎麦があって「色黒く山家そだちに角たてどあだのそばとて人の吹聴」という狂歌が詠まれている。この当時、わらび粉をつなぎにした黒い、いまでいう田舎そばであったことがわかる。
hi 7  常陸秋そば 茨城県にはかつての久慈郡・金砂郷村や水府村一帯で栽培されていた「金砂郷在来」というソバの名品種がある。これを品種改良してできたのが「常陸秋そば」で、比較的大粒で粒も揃った優良品種として、昭和60年に県の奨励品種に採用されて県内全域で栽培されているが、種子の管理と検査には厳しい基準が設けられている。
hi 8  左利き用(包丁) 左利き用そば包丁。需要と供給によるものと思われるが、右用片刃に比べ包丁の種類や品数も少なく、値段も割高に設定されている。素人向けのそば包丁の場合では約倍ほどの値段設定になっているケースもある。反面、需要が少ないので根気よく探せば案外掘り出し物に出会えることもある。
hi 9  人見必大 江戸時代前半の本格的な食物学事典である「本朝食鑑」元禄10年(1697)刊行の著者。本朝食鑑の原文は漢文体で中国・明の本草学者である李時珍著「本草綱目」を参考に食物を和名中心に分類説明した書で12巻10冊。蕎麦についての記述では寛永20年(1643)跋刊の「料理物語」に次ぐもの。なお、後の寛延4年(1751)10月脱稿「蕎麦全書」の著者:日新舎友蕎子も本朝食鑑から多くを引用している。*「本朝食鑑」の項参照
hi10  ひね (陳) 米の場合は、前年に収穫された米が古米で、年数がたって古くなるとひねまい(陳米)という。ソバは「新そば」の時が食味と風味がともに良いが気温と湿度の高まる梅雨の頃を境として食味も風味も落ちるといわれている。一般に新そばが出回る頃から、前の年のソバをさして「ひね」ともいう。(もっとも、現在は低温貯蔵の設備も向上しているので劣化の度合いも速度も改善されている面はある。)
hi11  ヒノウトン(ヒノウドン) 京都・油小路にあった日野屋製のうどん。江戸時代初期の医者で歴史家・広島藩医黒川道祐は、「・・・油小路下立売南 日野屋湯煮饂飩難歴数十町不冷云(茹でて数十町持ち歩いても冷めない)」と記している。「茶会記」でもっとも古いのが「松屋会記」で、この中に、奈良におけるそば切りの初見が登場する。元和8年(1622)大和郡山の記録に「ヒノウトン 又ソハキリ」とある。
*「松屋会記」の項参照
hi12  檜枝岐 福島県南会津郡檜枝岐村。会津地方の多くは山国である。特に檜枝岐村や山都町などは高冷地で米が実らず、昔からソバを主食とした歴史をもっている。檜枝岐地方の「裁ちそば」は、小さいそば玉を太くて短い麺棒で丸く延し、十割で切れやすいので生地は畳まずに数枚を重ねて布を裁つように切る(小間板を使わない)。布を裁つように切るので「裁ちそば」という。尾瀬をはさんだ向こう側の群馬県利根郡片品村に伝わるそばの切り方も、丸出ししたそばを半切りして数枚重ね菜切り包丁を手前に引いて切るので、「ひきそば(引き蕎麦)」という。
hi13  日野 資勝 江戸時代前期の公家。権大納言正二位、徳川家康の知遇を受け三代家光の時代には武家伝奏も努める。日記『資勝卿記』には元和10年(1624)2月の条で京都の大福庵でそば切りを馳走になったと記している。「・・・大福庵へ参候て、弥陀ヲヲガミ申候也、其後ソハキリヲ振舞被申て、又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也」とあって、京都におけるそば切りの初見である。慈性日記で江戸におけるそば切りの初見を書いた慈性の父。
hi14  干葉(ひば)のおこうがけ 長野県鬼無里地方の郷土そば。干葉(ひば)は大根葉(や野沢菜)を風通しの良い日陰で干した保存食品。この干葉をもどして刻んだのを入れた味噌汁を鍋に作り、これに茹でておいたそばを「とうじかご」に入れて鍋に湯じて温め、汁や実をかけて食べる。「おこう」は「お香」で味噌汁の実のこと。
*「とうじかご」の項参照
hi15  氷見糸うどん 富山県氷見市の江戸中期に始まったとされるうどんで、加賀前田藩ご用達うどんという。輪島素麺の技術から「糸うどん」の製法を編み出したという。日本三大手延うどんというのがあるそうで、秋田の稲庭うどん、長崎県五島の五島うどん、富山の氷見うどんだそうだ。
hi16  冷麺 (ひやむぎ) 室町時代に入ると素麺とうどんが登場する。やがて冷麺(ひやむぎ)ときりむぎ(切麺)もさかんに登場するようになる。冷麺(ひやむぎ)は冷麦とも書き、うどんよりも細く切った麺を茹で、冷水でひやして食べる。
hi17  拍子木食い 出雲では昭和初期まで「拍子木食い」といわれるそばの曲食いが行われていた。割子そばを盛った角形のわりごを左右の手にひとつずつ持って、拍子木のようにカチカチ打ってそばを口の方に寄せながら箸を使わずにすすり込んで食べる。そばの通と称する人たちの遊びが高じたものであろう。同様な曲食いに「のの字食い」の例がある。
*「のの字食い」の項参照
hi18  屏風たたみ うどんを打つ工程で、延し終えた生地の一般的なたたみ方。生地を前後にずらしながら一重ずつ屏風をたたむように折り重ねていくたたみ方で通常4層にたたむ。これに対して、そばのたたみ方は、通常は先ず二枚に重ねてから四層に畳むので8枚重ねになる。または、延し終えた生地を三枚に重ねる(三枚だたみ)場合は、これを四層に畳んで12枚重ねを切ることになる。経験が浅くて包丁をしっかりと切り通さなければ切った麺に「いかだ」が出る場合がある。
*「いかだ」の項参照
hi19  平うどん 寛文元年(1661)の「東海道名所記」や、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、さらに、井原西鶴の「好色一代男」(1682)などにも登場する三河の芋川にあった平打ちのうどんで、芋川名物ひらうどんは街道一の名物となっていた。芋川は現在の愛知県刈谷市で今川町、今岡町、一里山町の諸説があるという。
hi20  平打ち きしめんのように幅広く打ったそば。そばは延した麺生地の厚さと同じ幅で切る、すなわち正角がよいとされるが、延しの厚さより切り幅を薄く切って若干の縦長の麺に切るのが「きりべら」であり、延しの厚さよりも幅広に切るのを「のしべら」ともいう。郷土そばのなかには平打ちのそばを特徴としている場合もある。ただし、素人の初心者が打ったきしめん風のそばは概して不揃いで茹でるのもむつかしく味も劣るので良しとされない。
hi21  平椀 浅くてひらたい椀のこと。「わんこそば」のわんこの「わん」は平椀の方言で、そばを木地椀に入れて出す。「コ」は小さく愛すべきものに付けるこの土地の方言。娘っこ、馬っこなど、飲んべえにとっては酒も「酒っこ」となる。岩手県花巻・盛岡の「わんこそば」は旧南部藩領に伝わるそば振る舞いの形で、お替わりを強いるのが御馳走であり、祝儀・不祝儀を問わずおこなわれたともいう。現在では諸説あって、そば屋で「お変わりを強いる」形の商売が始まったのは明治以降でさほど古くはないそうだ。
     
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ファゴビラム ソバ属の学名はFagopyrum。ソバには、野生種も入れるといくつもの種類があるが、栽培種としては、普通ソバ(学名:Fagopyrum esculentum  英語名:buckwheat  common buckwheat  sweet buckwheat)と
ダッタンソバ(学名:Fagopyrum tataricum 英語名: Tartary Buckwheat  Bitter buckwheat)の二種類がある。いずれも一年生草本。
他に野生種のひとつに宿根ソバ別名シャクチリソバ(学名:Fagopyrum cymosum 英語名:Perennial Buckwheat)がある。 Perennialは多年生植物の意味。*「ソバ そば 蕎麦」の項参照
  プレアデス星団 牡牛座にある星団で、昴(すばる・すまる)のこと。「すばる」は、西日本とりわけ近畿地方で多く使われてきた名前で、すばり、すまる、すわり、つんばりなど多くの方言をもっている。また、六つの星が連なったように見えるので、静岡から東北までの東日本では「六連星(むつらぼし)」という呼び方が多く使われ 、これも地域によっては六連(むづら)、六星・六連珠、六神様など少しずつ異なった呼び方をもっている。古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。ことにプレアデス星団はその高さで蕎麦蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。「すばるまんどき 粉八合」は、そばまきの時期を表したもので、「すばる」が南中したときが「まんどき」で、夜明け方に南中したときにそばを蒔くともっともよく実り、一升の実から八合の粉がとれるという俚諺である。静岡県では「六連空なか 粉八合」。*「粉一升」「粉八合」の項参照
  風俗画報 明治22年(1889)に創刊され、大正5年(1916)まで27年間にわたって発行された日本で初めてのグラフ雑誌であり最大の風俗研究誌でもある。全517冊の内容は、江戸・明治・大正の世相・風俗・歴史・文学・事物などあらゆる分野に及び、石版画による挿画(後には写真版)も付いている。例えば、明治39年346号の大坂のうどん玉売りの様子、当時の行商の蕎麦売り、また、明治40年前後の京都の夜泣きうどんなど、明治・大正のそばやうどんについての記述や挿画がある貴重な資料ともいえる。
  風俗文選 江戸時代の半ば、そば切り発祥の地について二つの説が現れたひとつがこの風俗文選で、信濃の国本山宿とある。江戸中期の俳文集。森川許六編。宝永3年(1706)刊。森川許六は彦根藩井伊家の家臣で、松尾芭蕉十哲の一人。芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後に改題した「風俗文選」の中で、「そば切りといっぱ もと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。他のひとつは尾張藩士で国学者の天野信景が雑録(随筆集)・「塩尻」宝永(1704~11)のなかに記した甲州・天目山だとする説である。
*甲州説・信州説の項参照。
  風鈴そば
 風鈴そば売
貞享3年(1686)の江戸では、防火のためにうどん・そば切りの夜売りを禁ずるという御触書が残っていることからも、この頃にはすでに天秤を担いだ夜売りが盛んに出現していたことが分かる。大方は夜売りであったので夜鷹そばと呼ばれ、上方では、そばとともにうどんも売るので夜鳴(夜泣き)うどんといわれ繁盛した。 夜鷹そばは、「かけそば」専門で、その扱いも不衛生であったといわれるが、宝暦(1751~64)の頃になると、屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら担ぐ風鈴そば売が登場している。器なども清潔な物を使って「しっぽく」(かやくの一種)などの種ものも扱うようになっていった。それまでの夜鷹そば売りに対する差別化であったが、その後、夜鷹そばも風鈴を下げるようになって両者の区別がつかなくなったという。
  ぶっかけ ぶっかけそば切りの略。詳しくはわかっていないが、元禄(1688~1704)の頃に、現在の日本橋あたりにあった信濃屋というそば屋が、付近で働く人足たちが立ったままで食べられるように冷やがけにして出したのが始まりだとされている。当時は下賤な食べ方とされていたが、やがて、寒い季節にそばを温め熱い汁をかけるようになって普及する。その後、それまでの汁につけて食べるのを「もり」と呼んで区別するようになった。やがて、ぶっかけも「かけ」といわれるようになるがどちらも後の時代で、「もり」という表現は安政2年(1773)頃であり、「かけ」は寛政(1789~1801)頃からであるといわれている。
  富貴地座位 三都の名物を記した評判記で安永6年(1777)刊。江戸・京・大坂の名物店を多く紹介している。例えば、江戸名物では浅草新寺町の称往院院内の道光庵のそばについて、寺でありながら本職のそば屋を押しのけて筆頭に上げている。また、浪花名物のなかでは和泉屋砂場の賑わいとともに、寂称(じゃくしょう)のそば切という紹介で「新蕎麦の早きしらせ」として登場させている。
  福そば 年を越して新年を迎える暮れの大晦日と節分は一年の節目で、「そば」を食べるしきたりが各地に残っている。その総称が「年越そば」で、地域によってそれぞれの呼称がある。そのなかに、運や福、長寿などの願いを込めた「福そば」や「運そば・運気そば」、「歳とりそば」「大年そば」や「寿命そば」などがある。さらには旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願う「年切りそば」や、回顧しながら食べる「思案そば」もあり、様々である。
  藤村和夫 通称「有楽町更科」の元4代目主人。「そば屋の旦那衆むかし語り」「蕎麦屋のしきたり」など蕎麦に関する著書は多数。寛政2年(1790)麻布永坂に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」が創業したのが江戸の更科の始まりで、「信州蕎麦処布屋源三郎」通称「有楽町更科」は明治35年に開業している。
  符丁 以前の寿司屋やそば屋には、「通し言葉」とか「符丁」というのがあり、例えば寿司屋には寿司屋の店内だけで通用する独特の言葉があって、これを自由に使えなければ一人前と言われなかった。「符丁」は客など第三者には分からないように値段や合図などを「隠語」にしたものであり、「通し言葉」は店内用語を符丁も交えながら簡略化して客の注文を調理場や作業場に伝達する役割を持っている。例えばそば屋の通し言葉の一例は、「天つき三杯のかけ」と言うと「天ぷらそば一杯とかけそばが二杯」の意味で、「つき:つく」が「ひとつ:一杯」で、その後の数「三杯」は合計の数、したがって「かけは3-1で二杯」となる。「まじり」は「ふたつ」で「天まじり三枚もり」だと天そばが二杯ともり一枚。大盛りは「きん」だから、「もり一枚きん」で大盛り一枚。
  太打ち
     太い蕎麦
太く打った蕎麦または太く打つこと。一般的なそばの太さのことを中打ちというが、これに対し太いそばを打つことを太打ちという。一般的に「細打ち」のそばはのど越しを楽しむが、太い田舎そばは噛んで食べる。かつて池波正太郎や多くの文人達にも愛された東京・神田須田町の「神田まつや」の太打ちは割り箸ほどの太打ちの蕎麦(いまは予約)で有名である。 酒つなぎ(酒を加えて打つそば)というそばの打ち方があって、太打ちの角が煮崩れないためであるが、酒の香りが強く一般向けしないという。*「御定法(そばの太さ)」の項を参照
  歩留まり重量
    割り戻し換算
玄ソバから殻を取り除いて抜き実にした場合の歩留まり重量は75.9%程度とされている。元々、外国産ソバの輸入はそばの実(殻付)すなわち玄ソバだけであったが、近年の輸入実態を見ると殻を取り除いた抜き実の状態に加工して輸入される割合が増えている。 そのため2010年(平成22年)1 月から、いままでの玄ソバの「そばの実の輸入(殻付)」に加え、「そば(抜き実)」も統計品目として把握できる。そこで「殻付き(A)」と「抜き実を殻付き換算(B)」することによってそばの輸入量が推計できるようになった。この際の推計のため歩留り重量75.9%から、「むき実」を「殻付き換算(玄ソバ換算)」するための割り戻し換算率を75.9%として推計している。
  フ(麩)の初見 うどんとフ(麩)の初見は、奈良・法隆寺の史料「嘉元記」正平7年(1352)の中に「・・・三肴毛立タカンナ、ウトム、フ、サウメマ(ン)、一折敷 数六、粽(ちまき)・ムキ粽一杯・アメ一杯・ワリコ・ヒワ一フサ・白瓜切少々・ハイ少々」という記録があって、これが「うどん」と「麩」の初出だとされている。ここに素麺も出ているが、これより先の康永2年(1343)京都・八坂神社の「祇園執行日記」に一足早く素麺が初出している。
  ふのり 布海苔:フクロフノリの煮汁は糊に用いる。昔はどの家庭でも着物の洗い張りなどで使った。新潟・小千谷市から十日町市にかけての魚沼地方は織物の産地で縦糸の糊付けに海草のフノリが欠かせない。新潟を代表する郷土そばに、つなぎにフノリを使った緑色のつるっとしたそばがある。フノリを煮てノリ状にして打った「へぎそば」「手振り蕎麦」は今もこの地域の名物で、大きな長方形のせいろに一把ずつ並べた盛りつけと独特の歯触り、薄く青味がかったそばの色合いが特徴である。*「へぎそば」の項参照
  振り売り 天秤棒を担いで物を売り歩くのを、棒手振(ぼてふり)とか振り売りといってそのほとんどは天秤棒の両端に荷を付けて担ぐか、肩に担ぐ、背負う、頭上に乗せるなどで、さまざまに荷を運ぶ姿が各所で行き交った。店を張らずに広く町中で商売(あきない)をする物売りが繁盛していた時代で、そばやうどん売りは勿論のこと、野菜売り・魚売り・飴売り・甘酒売り・水売り・氷売り・すし売り・~など、食べ物や薬類・小物・道具類 などさまざまな物を売り歩いた。その姿は、江戸時代から明治の頃まで続き、職種によってはほんの少し前の時代までどの町でも見られる風景であった。
  振り笊 茹でて洗っておいたそばを一人前ずつこの笊に入れ、(釜の)湯の中にほんの一瞬通してから笊を振って余分な湯を飛ばし、温めておいた器に入れる。そば屋では大きな茹で釜があるが、イベントなどでは湯通し用の鍋を別に用意したほうが便利な場合もある。竹製の編んだ振り笊が良いとされ、そば用は柄が無く、うどん用には柄が付いたものを使うのが一般的である。
  振り水 木鉢の作業で、水回しの際に最後の微調整のために入れる極め水。様子をみながら手振りで入れるのが一般的。加水は、一回目の水回しと二回目の水回しを終え、状態を見極めながら残り水を手振りで回しかける。三回目は微調整の極め水なので慎重に行うことが大切である。
  篩の網目 篩の網目の大きさを表す単位には「目」と「メッシュ」がある。「目」は1寸(3.03cm)がいくつに仕切られているかを表す値であり、「メッシュ」は1インチ(2.54cm)がいくつに仕切られているかを表す値である。*「目」「メッシュ」の項参照
  振舞そば そば振舞。そばでもてなすこと。そばを馳走すること。ハレの場や寄合などさまざまな場面で振舞われるが、例えば、秋田県北部の「道城そば」の地域や岩手県花巻・盛岡の「わんこそば」には、客に「何杯もお替わりを強いる」のがご馳走で、これがこの地方の振舞そばの風習だという。
  振舞 ソハキリ 木曽大桑村定勝寺の「振舞 ソハキリ 金永」という記述、これがそば切りの初見である。以下にあげるそば切りに関する早い時期の史料、すなわち天正2年(1574)木曽・常勝寺に始まり、慶長19年(1614)江戸・慈性日記、元和8年(1622)奈良郡山・松屋会記、元和10年(1624)京都・資勝卿記、寛永3年(1627)京都・慈性日記にいたるまでの50年間に現れたのはすべて「ソハキリ」という表記である。これらに続く寛永13年(1636) 木曽の贄川宿で「蕎麦切ヲ賜・・・」とある中山日録は漢文体の紀行文で、初めて「蕎麦切」という漢字表記があてられている。
     
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he 1  平家大根 宮崎県椎葉村には昔から伝わる焼畑で栽培されていた短くて辛味の強いすえ大根があり、平家大根ともいう。特徴は、辛味がとても強いのでおろしにしたり、肉質が硬いので漬物や煮崩れしにくく煮込みに使ったり、切り干しにもする。正月前に掘り起こし、葉を取って埋めて長期保存する。
he 2  へぎそば 新潟を代表する郷土そば。つなぎにフノリという海藻を使った緑色のつるっとしたそばを、「へぎ」という大きな長方形のせいろに、きれいに整った波の形に盛りつける。発祥地の、小千谷市から十日町市にかけての魚沼地方は昔から織物の産地で縦糸の糊付けに海草のフノリが欠かせない。
茹でたそばを水からあげて盛りつけるときの手の動作から「手振りそば」ともいい、一把ずつ並べた盛りつけと独特の歯触り、薄く青味がかったそばの色合いが特徴である。「へぎ」(片木・剥ぎ板から)は30×50センチ程の長方形で3~4人前を盛る。*「手振り蕎麦」と同じ
he 3  へそ出し そばを打つときの初めの工程である木鉢の作業で、最終段階の「菊練り」を終え、シワのある側を手前に向けて絞りこむように回転させながら円錐形にしていく。シワの頂点から空気を抜くような要領で絞り込む作業を「へそだし」という。その後は延しの工程を進めるために、木鉢の中で、円錐の先を下に(上に)して手のひらで水平に回し込みながら押さえこみ均等な厚みの扁平なお鏡さん(お供え餅)の形にして木鉢の作業は終了する。
he 4  紅切り 山形の萬盛庵が得意とした紅花そば。紅花の色素をさらしな粉に練り込んだ変わりそばで、紅切り、紅花切りともいう。紅花の花は黄色で、この花を摘んですぐに水にさらして乾燥させることを何度も繰り返すと紅色になるので手間がかかる。紅花は、平安時代に千葉県長南町で盛んに栽培され、江戸時代中期以降は現在の山形県最上地方などで盛んに栽培された。山形県は「ベニバナ」を県花に、千葉県長南町は「べに花」が町花である。*「萬盛庵・山形の老舗」の項参照
he 5  変体仮名


  (そば屋の古い字体)
そば屋の看板や暖簾には昔から特徴のある字体で「きそば」とか「そば処」などと書かれたものが多い。明治の初めまではさまざまな種類のひらがなが使われてきたが、明治に入って平仮名が「一音一字」に統一されてしまい変体仮名は一般には使われなくなってしまった。現在も変体仮名が使われているのは、ごく一部の看板や商標などとなってしまった。
     
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ho 1  ボーメ計
   ボーメ度 
うどんを打つ時に、生地がだれないように、気温が高くなる夏は食塩水の濃度を高くし、冬の冷え込む時期は濃度を低くする。その為に、液体の比重測定に用いられる浮秤の一種を使って、食塩水の濃度(ボーメ度)を調整する。
季節や天候などその時々でボーメ度が大切な指標に使われる。
昔から、「うどん」を打つ時の口伝に「土三寒六(常五杯)」という季節と塩水濃度についての言葉があり、土用(夏)は塩一杯に対してを水を三杯入れ、寒(冬)は六杯、常(春秋)だと五杯の水を入れるという古くからの指標である。
*「土三寒六」の項参照
ho 2  訪花昆虫 普通ソバは、虫媒による他家受精植物で、ソバの花が咲きだすとじつに多くの虫たちが飛来して受粉の手助けをする。ここにあげた[画像]リンクでは、そんな訪花昆虫(またはそれに集まる虫たちも含め)40種類以上について写真とそれぞれの和名と学名及び英語名を付している。
ho 3  芳香炉 (ほうこうろ) 京都の老舗そば屋「晦庵河道屋」の14代植田貢三が昭和7年(1932)に創作した一種の鍋料理で中国鍋の火鍋子(ホーコーズ:中央が煙突になっている鍋)にヒントを得た料理。 鶏肉、湯葉、真蒸(しんじょう)、飛龍頭 (がんもどき)に季節の京野菜を煮ながら、仕上げにそばかうどんを入れる。
*「晦庵河道屋」の項参照
ho 4  包丁 そばを切る作業のことをいう場合もある。そば包丁(そば切り包丁)の一般的な特徴は刃が柄の真下まで伸びた(柄が刃の中心付近まで侵入した)もので種類も多い。初心者用からプロ用まであって、寸法では刃渡り24センチ(8寸)・27センチ(9寸)・30センチ(尺)・33センチ(尺1)などに大別される。素人でも上級者になると長さ33センチ、重さ1キログラムくらいを使う人も多い。一度に多くの量を打つプロの場合は36センチの長いのを使っている場合も珍しくない。柄に白鮫の皮を巻いたものが極上とされるそうだ。
ho 5  包丁拾弐扱之図 「そば切り包丁」の一般的な特徴である刃が柄の真下まで伸びた(柄が刃の中心付近まで侵入した)ものが、いつ頃から現れたのかについてはよくわかっていない。 元禄9年(1696)に書かれた「茶湯献立指南」という料理書のなかに包丁拾弐扱之図、すなわち12種類の用途別包丁がある。その中の包丁「蕎麦切」は「そば切包丁」として用途が書かれた初見であろう。 現在のような特化した包丁が出現するのは、文化・文政よりも後の、江戸・後期でも天保(1830年)以降か、または明治に入ってからではなかろうか。
ho 6  ほうちょう汁 九州では熊本や大分・宮崎、四国では愛媛県今治や宇和島などの郷土料理。小麦粉を練って手で引き延ばした平たい麺を味噌または醤油仕立てにしたもので、「手延べだんご」「だごじる(だんご汁)」ともいう。九州大分でも四国宇和島にも「包丁汁」と書く場合もある。大分ではこれを茹でてキナ粉と砂糖でまぶした郷土料理の「やせうま」がある。*「やせうま」の項参照
ho 7  包丁三日 そばを打つ工程の難易度をもっとも簡潔に言い表したことばで、「包丁三日」のあとに 「延し三月 木鉢三年(又は木鉢一生)」と続く。*「一鉢二延し三包丁」の項参照
ho 8  ほうとう 山梨県を中心に古くから食べられている郷土料理。小麦粉を練り麺棒で延して幅広に切った平たい麺を野菜とともに味噌仕立てで煮込む。これと同じように群馬県や埼玉県の山梨よりの地域では「おっきりこみ」とか「煮ぼうとう」という郷土料理がある。
ho 9  法要蕎麦 御正忌蕎麦のこと。浄土真宗の開祖親鸞上人の命日に行う御正忌に法王が食べる儀式そば。京都本願寺の御正忌は1月9日から16日。福井市の真宗三門徒派の専照寺は11月21~28日の御正忌にはおろしそばが振舞われる。
ho 10  飽和食塩水 これ以上塩が溶けない濃度の食塩水。例えば、100gの水に食塩が36g溶けた場合(36÷136)、この飽和食塩水100gに含まれる食塩は約26gということになる。うどんを打つときの食塩水の濃度「土三寒六」で考えると、夏の暑いときはこの食塩水を3倍に薄め、冬の寒い日は6倍に薄めることになる。*「土三寒六」「ボーメ計」の項参照
ho 11  北海道ダッタンそばの会 ダッタンソバの移入栽培と普及に務めてきた薬膳そば「長命庵」森氏の呼びかけががきっかけで平成15年に札幌市で設立された。ダッタンソバの普及活動を行っている。
ho 12  卜定祭
  (ぼくじょうさい)
奈良県桜井市の三輪明神・大神神社の神事。古くは五穀の値段を決めていたが、現在では素麺の相場を決める神事として残っている。そのため卜定祭には全国の素麺業者が三輪に集まる。三輪素麺発祥といわれる大神神社の神事によってその年の全国の素麺の相場が決まるというめずらしい行事といえる。
ho 13  干し蕎麦  乾そば 乾麺のこと。昔は生麺を屋外で自然乾燥した。現在は室内で移行装置を使って温湿度を調整した人工乾麺が主体。常温長期保存ができる。
ho 14  保科正之 二代将軍・秀忠の四男。庶子のため7才で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光の養子に入り20才で藩主(3万石)になる。秀忠の死後、家光によって寛永13年(25才)に20万石で出羽山形に入り、七年後の寛永20年(32才)に会津藩23万石に入封している。これらの転封によって、幼少からの「高遠のそば習慣」を「山形」や「会津」に伝える役割を担った可能性が高い。
ho 15  細打ち そばを細く打つこと。または、細く切ったそば。一般的にさらしなそばや変わりそばは細く打ってのど越しを楽しむ。「細打ち」に対する一般的なそばの太さがそば一本の太さが1.3ミリほどの「中打ち」であり、これが標準的なそばだとするとそれよりも細いそばが細打ち(細切り)であり、逆に、噛んで食べる田舎そばなどは「太打ち」である。なお、これらにはそれぞれの数値があるが、手打ちそばの場合と機械打ちの場合の基準数値自体が異なっている。*具体的な太さ・細さなどの数値については「御定法 そばの太さ」の項を参照。また、機械打ちについては「切刃番手」の項を参照。
ho 16  棒手振 店を張らずに広く町中で商売(あきない)をする物売りは、天秤棒を担いで物を売り歩くので棒手振(ぼてふり)とか振り売りとも言う。そばやうどんも天秤棒に担がれて売り歩かれた。その姿は、江戸時代から明治の頃まで続き、そばやうどんは勿論のこと、野菜売り・魚売り・飴売り・甘酒売り・水売り・氷売り・すし売り・など、食べ物や薬類・小物・道具類 などさまざまな物を売り歩いた。そのほとんどは天秤棒の両端に荷を付けて担ぐか、肩に担ぐ、背負う、頭上に乗せるなどで、さまざまに荷を運ぶ姿が各所で行き交った。*「振り売り」と同じ
ho 17  堀田七兵衛 神田・薮蕎麦の初代。江戸・本郷団子坂にあった「蔦屋」の神田連雀町店を引き継いだが、その以前は蔵前で「中砂」という店をやっていて、北池袋にある西念寺の墓石には「大阪屋七兵衛」とあってもともとは大坂の砂場系出身だったという。この話は、かつて、並木・薮蕎麦(七兵衛初代の三男が初代)の次男で池の端・薮蕎麦の堀田主人が対談などで話していたことである。
ho 18  ぼっち盛り 戸隠そばのそばの盛りつけはつまみあげた数本のそばを親指と人差し指でとり、半分置いて折り曲げ丸めるようにザルに盛るボッチ盛りである。茹でて洗ったそばの水を切らず、根曲り竹で編んだ円形のざるに5~6束並べる盛り方で、「ぼっち盛り」と呼んでいる。*戸隠神社・戸隠そばの項参照
ho 19  堀杏庵 江戸時代初期の儒医・儒学者。安芸広島藩浅野家や尾張藩徳川家に仕え、江戸幕府の寛永諸家系図伝の編纂にも関与した。寛永13年(1636)に尾張家藩主に随行して日光東照宮の遷宮の式に行った際の記録である杏庵紀行の「中山日録」に 中山道の贄川宿で「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉・葱・蒜ヲ入レ・・」という大根の絞り汁・たれ味噌・薬味で食べるというそばの食べ方についての初見を遺している。
ho 20  本返し そば汁を作る際の元汁を「返し」といい、これに「だし」をあわせて「そばつゆ」などを作る。「返しをとる方法」は、醤油を加熱し、砂糖を入れて煮溶かす方法を「本がえし」という。他に、「生返し」、「半生返し」がある。*「返し」「元汁」「生返し」の項参照
ho 21  本家尾張屋 寛正6年(1465)創業というから創業五百四十余年、現当主は十五代。元々は京菓子をつくる「菓子司」で、江戸時代には「御用蕎麦司」をつとめた京都を代表する老舗・そば屋のひとつである。京都の由緒ある寺院や宮家はもとより、御所にも手打ちのそばを届け、ときにはそばをつくりに伺がう、いわゆる宮内庁御用達のそば打ちをつとめたとある。「蕎麦板」はそば粉や小麦粉を原料に練り上げて短冊形に焼いた菓子で京銘菓のひとつ。他に、そば餅も有名である。*「蕎麦板」の項参照
ho 22  本草綱目 中国・明の本草学者・李時珍が著した本草書。「本草綱目」の初版は万歴23年(1596)に出版されたとされ、日本には慶長12年(1607)に林羅山が長崎で入手し幕府に献本している。わが国の本草学は本書の影響を強く受けていて、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。そば関係では、元禄10年(1697)刊行で、江戸時代前半の本格的な食物学事典となった「本朝食鑑」であり、また、これを寛延4年(1751)に三巻一冊本を脱稿し江戸中期唯一ともいえるそばの専門書「蕎麦全書」は、その「本朝食鑑」を参考にし引用しながら自説を述べた書である。
ho 23  本朝食鑑 元禄10年(1697)刊行、江戸時代前半の本格的な食物学事典。中国・明の本草学者・李時珍著「本草綱目」を参考に食物を和名中心に分類説明した書。原文は漢文体で12巻10冊。産地、加工、料理、薬、民間行事など多方面にわたる。著者:人見必大は医業を相続し三百石で御番勤士も勤めた。「蕎麦切り」につき製粉・打ち方・茹で方(煮る)・つけ汁、薬味などを記述し、「そば湯」については初見である。後のそば関係書に大きな影響を与えている。
ho 24  本朝世事談綺 江戸時代民間常用の器物などの起源を記した事物起源辞典とも言うべき書物。菊岡沾凉著、享保19年(1734)刊行で、そば切りの誕生は十七世紀以降であるとする根拠になった。「蕎麦切  中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳に記せるにも、そば切の事見えず。ここを以て見れば、近世起る事也。もろこし河漏津と云船着の湊の名物・・・」とあって、二百年遡って書物を調べても蕎麦切について書いた書物は出てこなかったとしている。
ho 25  本朝文選 宝永3年(1706)刊行したが直後に「風俗文選」と改題された江戸中期の俳文集。芭蕉門下の森川許六編。このなかで、「蕎麦切といっぱ もと信濃の国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。また、滋賀県・伊吹山のソバについては「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む」と述べている。*「風俗文選」の項参照
ho 26  本のし そばを打つ時の「延し」でおこなう仕上げの段階で、幅を一定に保ちながら麺生地の厚みを確認しながら手前から上方向に均一に延していく作業。巻き棒に麺生地の半分を巻き取り、開いたままの上半分の厚さを均一にしながら延し終え、全体を巻き取って180度向きを変えて手元から解き広げて別の巻き棒で巻き取る。巻き棒に巻いたまま延していない部分の麺生地を広げて同様に延し棒で均等にする。この作業では、状況に応じた打ち粉の振り方と、巻き棒と延し棒の役割に応じた三本の使い分けが大切である。
     
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