[ え ] - そば用語の解説一覧 
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e 1  ASW ASW(Australian Standard White Noodle Blend)。オーストラリア産小麦の銘柄のひとつ。日本のうどん市場向けに開発された数品種がブレンドされた麺用小麦で、中力粉に適している。うどんとしての食感の良さとクリーミーホワイトの色合い、製麺の作業性などに優れていて、うどん製麺で現在もっとも多く使われている。これに対して、国産でもうどん用麦の品種開発に取り組んではいるが生産量も少なく、ASW中心の現状にある。
e 2  永沢寺(三田) 永澤寺は応安年間(1370年頃)に開かれた曹洞宗の禅寺。兵庫県三田市の永沢寺地区は海抜550mの高地で、古くからそばが栽培されてきた。永沢寺そば道場ではそば打ち体験やそば祭りがおこなわれる。全麺協・素人そば打ち段位認定会の初段・二段・三段位の認定会や関西素人そば打ち名人大会が行われる。(各日程は年度によって異なるので要注意)
e 3  駅そば
   駅うどん
全国のJRや私鉄のホームや駅構内でそばやうどんを売る店のこと。旅の途中のローカル駅ホームであったり、通勤や通学途上の駅で誰もが利用した経験があるのではなかろうか。駅弁の立ち売りが明治20〜30年代に認められていて、駅そばもそれに次ぐ歴史があるそうだが始まりについての正確な記録はない。一般に知られているのは、明治30年代に信越線の軽井沢駅が発祥だとする説と、函館本線の長万部駅か森駅だとする説もあるそうだ。
e 4  易林本節用集 古辞書(国語辞書)。節用集や庭訓徃来、運歩色葉集など。とくに室町中期の易林本節用集は古本節用集の中でも語彙数が多く、他の節用集に見られない語彙も多く含んでいるので語彙史的にみても利用価値の高い辞書の一つ。慶長2年(1597)改訂版の「易林本節用集」には饂飩・索麺などの麺類は出ているが、蕎麦切についての記載がない。 「庭訓往来(ていきんおうらい)」は、14世紀の後半(南北朝後期〜室町初期)に成立し、江戸初期にかけて多くの注釈本が出されたこの時代を代表する国語辞典であるが蕎麦切は登場していない。
e 5  越前そば
  越前おろし蕎麦
越前(福井県)の郷土そば。大根の辛みと、醤油とだしのうまみでそばを味わうこの地域独自のそばの食べ方。もともとは「おろしそば」といっていたが、「越前おろしそば」として有名になったのは昭和22・3年頃からという。小浜では「からみそば」ともいうそうだ。 おろし汁は、大きな鉢に入れて出すのが昔からの様式で、好みで汁の量が加減できる。 基本の薬味はきざみネギとカツオ節だけ。
おろし汁の作り方は、おろした大根に、前もって作って冷やしておいただしを注ぎ、これに好みの量の生醤油をそのまま加える。古くから栽培されていた辛味大根が使われたそうだが、最近は青首大根が主流になっている。青首大根に辛味大根を少し加えてさっぱりとした味を出すのもある。また、大根は下して絞らず繊維を残している。
e 6  越前屋 中山道の木曽郡上松町の寝覚め(寿命)そばは寛永元年創業という。一説に、元禄の頃とも。江戸時代からの木曽路名物で、当時の賑わいを浮世絵師・歌麿は「寝覚蕎麦越前屋の図」で店の賑わう様子を描き、十辺舎一九は「木曾街道続膝栗毛」で白い蕎麦であったと書き記している。*[画像]は、現在の(寿命そば)越前屋  寝覚の蕎麦屋
e 7  江戸見物道知辺 江戸見物道知辺は天明年間(1781〜1789)刊。大坂の砂場が江戸へ進出した時期やいきさつはわからないが、江戸に出店してからの記録はいくつかある。天明年間(1781〜1789)刊の「江戸見物道知辺」のなかに「浅草黒舟町砂場蕎麦」の名前が登場している。この他では、寛延4年(1751)の「蕎麦全書」では江戸の薬研堀に「大和屋大阪砂場そば」が登場し、安永8年(1779)刊の洒落本で、当時の江戸三景の賑わいを描いている「大抵御覧」のなかにも「砂場そば」の名が出ている。文章の内容から三叉中洲、すなわち今の日本橋中州町あたりであろう。*「大抵御覧」の項参照
e 8  江戸自慢 紀州田辺藩の医師原田某が、江戸勤番中の幕末の江戸の様子をいきいきと描いた見聞録。そのなかに紀州と江戸の食べ物の味くらべを書き、そばでは、「(江戸の)蕎麦は鶏卵を用いず小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く 胸につかへ 三盃とは食ひがたし 汁の味は至極美にして 若山の蕎麦を江戸汁にて食ば 両美相合して 腹の裂けるを知らず食にや有らん」とある。このことからも当時の紀州のそばは玉子つなぎであったこと、一方江戸のそばは小麦粉つなぎの割合の多いそばであったことがわかる。そば汁の差も興味深い。
e 9  江戸汁 古い時代のそばつゆは、味噌と水、または鰹節を煮詰めてこしたもの、それに、大根のしぼり汁が加わえられていた時代が長い。その後、江戸時代も後期になると醤油が普及し、鰹節のだしに濃口醤油を加え、さらに味醂や砂糖が加わって江戸のそば汁ができた。一方、上方では昆布と何種類かの節でだしをとり薄口醤油を合わせる方法がとられた。
e10  江戸っ子 江戸時代の中期以降に現れた言葉で、江戸の町人・職人から独自の「江戸っ子」と称される住民意識が登場したと考えられている。背景には武家や商人にたいして、神田・日本橋・浅草・本所・深川などの下町と称された地域の町民・職人の身内意識からで、江戸前などの言葉の出現も同様に江戸時代の中期以降または後期の出現である。蕎麦や寿司、うなぎや天ぷらなど江戸を代表する食文化もこのような背景のなかではぐくまれたといって過言ではなかろう。
e11  江戸流のそば
 江戸のそば 江戸そば
そばの打ち方にはいろいろの手法があるが、現在では「江戸流のそばの打ち方」が主流になっている。江戸の人口増加と庶民の嗜好が背景になって、狭い場所でも多くのそばが打てて無駄が少ない。そば切りが庶民の趣向にも合って需要が増えていくのに対応するために、そば打ち職人が工夫を凝らしていく過程からあみ出された手法だといわれている。地方色豊かな郷土そばや田舎そばなどと対比してのそば。
e12  江戸名所図会 江戸時代後期の寛政期に編纂を始め、三代にわたって書き継がれ天保年間に7巻20冊で刊行した江戸の町についての第一級の史料である。鳥瞰図を用いた江戸の地誌紀行。3巻には北多摩郡神代村(東京都調布市深大寺)の天台宗・浮岳山昌楽院深大寺の深大寺蕎麦の図があり、浅草新寺町の図には称徃院と東光院も見える。称往院は寛延の頃(1750頃)そば切りが評判になったことで有名な支院・道光庵があった。*「深大寺蕎麦」の項、「東光院」の項「道光庵」の項参照。
e13  海老切り エビのすり身をさらしな粉に練り込んで打った変わりそばで、五色そばのひとつにもされる色物。エビのすり身に、みりんと酒の煮切り汁を加え裏ごししたものをさらしな粉に40%ほど加えて練り込む。贅沢な蕎麦として扱われる。いまひとつ、桜えびの粉末を打ち込んだ変わりそばは比較的手軽に打たれる。桜えびをレンジで乾燥させて粉末にし、さらに篩い分けた粒子の細かい粉をそば粉の5%ほど混ぜて練り込む。やさしい桜色と香りが好まれる変わりそば。
e14  戎橋丸萬 幕末から明治、昭和の初期にかけて、大阪の道頓堀を中心にうどん屋が軒を並べるようになった。道頓堀川にかかる戎橋北詰西角にあった「戎橋丸萬」めんるい所うどん○万など、当時を代表したうどんの大店である。
他に、北の新地と堺には幕末から明治にかけて「うん六」といううどん屋があって、うどんではめずらしい「うどんの熱盛り」を扱って繁盛したという記録が残る。
e15  絵本御伽品鏡 享保年間(1716〜36)の大坂市中と付近の名物風俗が描かれた絵草紙。長谷川光信の筆による享保15年頃(1731)のそば切屋の店先風景がある。暖簾の字から享保頃のいづみやらしい。置き行燈(箱看板)に「壱せん・そば切・八文」(一膳八文)とそばの値段が書かれ、その同じ行燈に「うんとん」の文字も見える。大坂でもこの時代はまだ、そば切りやうどんの値段は八文だったことがわかる。
e16  絵本御伽品鏡
  蕎麦切屋の店先風景
「絵本御伽品鏡」  そば職人は立ってそばを打っているようにも見える。格子越しに見える包丁に多少重量感が窺える。
他の史料から見ると、ちょうどこの前後あたりから、立ってそばを打つ図が描かれだす。最初は京都で宝永8年(1711)の「色ひいな形」であり、名古屋でも享保15年〜元文4年(1730〜39)の「享元絵巻」において立って打っている。次に明らかに立ってそばを打っているのは寛政10年(1798)の摂津名所図会である。江戸での資料はまだ見当たらない。
e17  絵本江戸土産 初版は宝暦3年(1753)に三巻本として刊行された。両国橋の納涼、三囲の春色、隅田川の青柳・・・浅草、上野などの江戸名所を絵にしたもので、江戸土産としても評判を呼んだ墨摺絵本である。「両国橋の納涼」場面の三枚目には何人もの人が行き交う両国橋があって、橋下には船遊びの屋形船など大小の舟で混みあっている。その中に「うろうろ舟」といわれる料理舟があって、「江戸まへ、大かばやき、御すい物」の行燈看板を出している。餅売、酒売、まんじゅう売、でんがく煮売、さかな売、冷水冷麦ひやし瓜、そば切り売りなどの舟が、屋形船の間をうろうろしている。
「両国橋の納涼」場面の一枚目には、両国橋のたもとの賑わいがあって、葭簀張りの蕎麦屋の左手に、掛け行燈の片面に「そば」もう一方に「二六にうめん」と書かれてある。「二六」の意味はさておき、にうめんは素麺を温かく煮込んだもの。
e18  円爾弁円
   聖一国師
鎌倉時代の高僧。東福寺によると、円爾弁円(えんにべんえん 1202〜80)は嘉禎元年〜仁治2年(1235〜1241)宋に渡航して「中国から多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与。また水力を用いて製粉する器機の構造図を伝えて製麺を興す」と伝えていて、今も素麺を供える行事が残っているという。円爾弁円の聖一国師という号は勅謚(天皇から贈られた最初のおくりな)である。
     
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