沖縄の蕎麦 その2      Back   Top  ( 2018. 4. 1. )

琉球の古書『伊江親方日々記』にみる新蕎麦蕎麦切

 沖縄の蕎麦 その2 『伊江親方日々記』(いえうぇーかたひにっき)


はじめに
 『御膳本草』では、琉球時代に書かれた唯一の本草書の内容を素直に読み解くことによって、琉球国の産物である穀物のなかに蕎麦があり、その穀物の造醸類の中に蕎麦切が書かれていることをあげ、「蕎麦は琉球の産出穀物として栽培されていたとし、さらにその蕎麦を粉にして製した蕎麦切があったという実録である。」と結論付けた。
 そして今回、改めてとりあげたのは『伊江親方日々記』で、これには「御膳本草にみる蕎麦と蕎麦切」で述べ足りなかった部分を補ってくれるかのごとき琉球時代の実例を示す「新蕎麦の記述」と、まさしくその蕎麦から製した「蕎麦切の記録」が書かれている第一級の史料であることがわかった。

目次
はじめに
1.『伊江親方日々記』について (蕎麦が登場する背景から)
2.新蕎麦と蕎麦切についての記述
3.当時の琉球の蕎麦についてわかること
   @「新蕎麦」について
   A蕎麦切は旬のご馳走
   B蕎麦切の食べ方
おわりに
参考文献

1.『伊江親方日々記 』 (いえうぇーかたひにっき)について
  乾49年(1784)〜嘉慶21年(1816)までの日記であるが「蕎麦」や「蕎麦切」が登場するのは主として嘉慶18年(1813)文化10年頃の記述である。
著者の伊江 朝睦(いえウェーカタちょうぼく)[1]は、琉球国の三司官という重要な地位を務め、「親方(うぇーかた)」たという身分の有力士族である。 大半の部分は公務を退いてからの私的な日記として書かれているので、当時の士族の日常生活や士族間の公私にわたる交流、さらには当時の食生活や食文化までもがうかがい知ることができる。また、沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫の『御三代伊江親方日々記』に関する解説文によると、公務を退いてからも首里に住む伊江親方家とその領地である伊江島との密接なやりとりについても書かれていることや、個人的にも薩摩藩の人たちとの公私にわたる交流があったことが窺える記述があるなど蕎麦切に思いをめぐらす際にも貴重な史料といえる。


2.新蕎麦と蕎麦切についての記述
 沖縄県立図書館・レファレンスから回答頂いた内容と貴重資料デジタル書庫の『御三代伊江親方日々記』の原文(写)の一部を参考にしている。

 嘉慶拾八年 注:(1813) 文化10年
五月 十八日 新暦では1813年 6月16日
 倅親方より新蕎麦一俵差下候
上様??御初献上仕度相願、頭慶世村親雲上江相談させ候処、愈差上候而可宜由被申候付、・・・・珍敷蕎麦切差上御喜悦ニ被思召上候段、御返詞奉承知難有次第奉存候事、・・・・ 一  八寸五分重箱一組ニ三次 蕎麦切一重御品盛合錫之切立一ツ 御汁小形湯次ニ 蕎麦之汁入差上候事 ・・・
七月 廿四日
 倅親方より先便新蕎麦一俵差下候付、去五月十八日奉願
上々様江蕎麦切御初献上仕候、御残長老衆招上、蕎麦切御馳走仕考ニ而・・・・
 嘉慶二十年 注:(1815) 文化12年
「蕎麦切者食進之物与兼而承・・・・  ・・・一椀半給候事・・・」 「蕎麦切二椀」など


3.当時の琉球の蕎麦についてわかること
@「新蕎麦」について  「倅親方より新蕎麦一俵差下候」を素直に解釈すると、著者の伊江朝睦は引退して首里に住み、領地[2]の伊江島は息子の朝安親方(うぇーかた)が納めていて、初収穫の新蕎麦が届けられたと解せられる。
日記の日付である五月十八日は現在の新暦(太陽暦)に読み替えると6月16日である。従って、この新蕎麦が収穫されたのは新暦5月末か6月初めであり、逆算すると種を蒔いた時期は2月末か3月初めと考えられる。
 これを植物学的に見たソバの品種や適応性から考えると、このソバは琉球国内産であったと判断できる。 論拠として、現在の日本列島をソバの作付期(播種〜収穫)で大雑把にみると、北海道は6月に蒔いて9月に収穫し、列島を南下するとともに遅れて、九州では8月/9月に蒔いて11月/12月の収穫である。これを考えあわせるとこの日記に書かれている3月初めの播種で6月初めに新蕎麦が収穫できるソバの栽培地域は、記録として残っていないけれども沖縄以外ではごく一部の例外[3]を除いては考えにくいのである。時代背景の異なる琉球の事例と重ねるわけではないが、現在の沖縄でもソバ栽培の取り組みがあって、地域による播種期の違いで開きがあるものの1月から6月の作付期間でおこなわれている。このことは、200年前のソバの作付け期と一致するのである。
 
A蕎麦切は旬のご馳走
 当時は多くの食材がそうであったように、琉球での蕎麦切は新蕎麦の季節を待って食べ始める旬の食べ物のひとつであったと考えられる。「初物は寿命が伸びる」と重宝される時代で、日記の中では「上様(王子)」や「上々様(王)」へ献上し、「長老衆」へも御馳走している。また、これら以外にも蕎麦切の記述がみられ、また、「蕎麦切は食進之物」なども見られる。 これらかも、琉球時代の宮廷や士族層の社会では蕎麦切の食文化があったと考えられる。
 
B蕎麦切の食べ方
 この時代(文化文政期)の蕎麦切に使われていた器は、一般には皿や椀または深鉢に盛るのが主流であった。ただし蕎麦の本などでは、竹で編んだ「ざる」や木枠に簀(すのこ)を敷いた「蒸籠(せいろ・せいろう)」も使われてはいるが、これは江戸や上方など一部地域のそれも蕎麦屋の商いでのことである。
 日記の中の嘉慶二十年の記述に「一椀半」とか「二椀」とあることからも、通常は煮た(現在風にいうと茹でた)蕎麦切を椀に盛り、小形の湯次[4]に入れた蕎麦之汁をかけて食べるのが一般的であった。
 五月十八日の日記にある上様への献上には重箱に蕎麦切一重御品盛合とある。 蕎麦切を重箱のような箱型に入れるのは現在ではめずらしいが、この時代は、野遊びの際での利用や、地域や用途が異なるが出雲地方の割子蕎麦の器の例で見ても明治の初めごろまでは長方形ではあるが箱型で、何段にも重ねて使われる例もみられる。
 ただ、日記に書かれた重箱は貴人に献上するための器として、また、御品盛合錫之切立も解釈を拡大すればやはり貴重でしかも涼しげな錫(すず)の切立[5]を使って、なかは薬味類などを入れたとも想像できる。

おわりに
 沖縄の蕎麦 その1では 『御膳本草』(1823 注:文政6年 成立)からは、琉球国の産物としての蕎麦と、それで製した蕎麦切 が存在して、それを本草学という観点から書き遺していることがわかった。
 次に、今回は沖縄の蕎麦 その2として、 すでに公務を退いた琉球国の有力士族の個人日記である『伊江親方日々記』のなかから、嘉慶18年:文化10年(1813)や 嘉慶20年の文中にきわめて具体的に蕎麦や蕎麦切のことを書いた実録が残されていた。
 そしてこれらは、琉球王朝の士族をとおしての蕎麦であって、庶民生活の中で蕎麦や蕎麦切がどうであったかは未知のままで普及の有無すら知ることができないが、少なくとも、かつての沖縄ではソバが栽培されていたことと、蕎麦(蕎麦切)を食べる食文化があったことだけでも示すことができた。
 この二つの史料の存在は沖縄の蕎麦(作物・穀物としてのソバ)や蕎麦切の歴史と食文化を知るうえで貴重であるといえる。
 自他ともに「ソバ栽培の記録も、蕎麦の食文化もなかった」としてきた沖縄ではあるが、この二つの琉球の古書をきっかけに、沖縄県内はもとより全国ベースでも「沖縄の蕎麦」についての認識に変化がおこるとともに関心が深まることを期待したい。

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