そばの歴史  蕎麦切り舟  その           <  サイトへ移動
 隅田川のそば切り売りの舟  

 大坂では、淀川の三十石船に漕ぎ寄せて飲食物を商う「くらわんか舟」の変わり種として登場するのが「蕎麦切舟」でうどんやそば切りを売り回ったが、一方、江戸の隅田川でもそば切り売りの舟が活躍したという。

 江戸の名所を絵にして(他国に遣わすにはまことによい)江戸土産としても評判を呼んだ墨摺絵本の「絵本江戸土産」(西村重長画 京都菊屋安兵衞による宝暦3年(1753)初版)の中の「両国橋の納涼」場面挿絵の三枚目には何人もの人が行き交う両国橋があって、橋下には船遊びの屋形船など大小の舟で混みあっている。
この間を漕ぎまわって飲食物を売った「売ろ舟」という小舟が描かれている。屋形船や屋根舟の乗船客に「うろうろぉ〜」といいながら、西瓜や瓜など飲食物を売りに回るのである。そこからついたといわれる「うろうろ舟」である。

橋下に大型の屋形船や小さい売ろ舟 「江戸の盛り場 海野弘著 青土社」の中で、この挿し絵について次のように説明している。

『三枚目の絵は橋の中央で、番小屋がある。橋の下は屋形船などで混んでいる。・・・・・・
この絵に出てくる吉野丸も宝暦の頃、最も大型の三十人乗りであった。
吉野丸の向こうは「うろうろ舟」といわれる料理舟で、「江戸まへ、大かばやき、御すい物」の行燈看板を出している。餅売、酒売、まんじゅう売、でんがく煮売、さかな売、冷水冷麦ひやし瓜、そば切り売りなどの舟が、屋形船の間をうろうろしていた。』と、いろんな物売りの中に「そば切り売りの舟」もあったことを書いている。
    両国橋の納涼 第3図


 「絵本江戸土産」の挿絵には、そば屋が何軒か登場する。
下は同じ両国橋のたもとの賑わいを描いた挿絵の一枚目であるが、右手奥に「きりや」という麺類店があり、店先に置かれた行灯看板の片面に「うんどん」、もう片面に「二六新そば」と書かれている。
また、その前の葭簀張りの店の左手に、掛け行燈の字は読みとりにくいが、同じく片面に「そば」もう一方に「二六にうめん」と書かれてある。
  二六新そば・うんどん・二六にうめん



たった一枚の挿し絵の中に「うんどん(うどん)」と「二六新そば」の看板があり、もう一つの店には「そば」と「二六にうめん」の看板がある。この時代の行燈看板の描き方として珍しい物ではないが、時代は江戸中期である。江戸では少し前頃から、うどん主流からそば嗜好に替わりつつある時代であり、そば切屋(そばが主の店)と、麺類屋(うどんやにうめんも多く扱う店)が混在していた風景とも見て取れる。

両国橋の納涼 第1図
第3図ともに西村重長画「絵本江戸土産」の挿絵 (「江戸の盛り場」より)
 

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