年越しそば  その             <  サイトへ移動   .

    大阪の年越しそば風景  

     きつねうどんの元祖で大阪うどんの老舗・松葉家の先代・宇佐美辰一氏が「きつねうどん口伝」という本で、明治・大正期の船場の商家について「うどんとそば」をおよそ次のように述べている。
     「毎月一日と十五日は普段よりちょっとご馳走を食べる習わしがあって、だからその日にはうどんの注文をしてくれた」
    「ぼんさん(丁稚)はすうどん。番頭はんになるときつねうどんが食べられ・・・・ そばは月末の晦日だけ。そばはゲンのもんやさかい・・・」とある。また、松葉家の暮れと正月の風景では、「三十一日はつごもりそばを出前して・・・   年末の晦日そば<節分の年越そばは注文が殺到しました。
    年越そばは元気に年を越すということでとろろ昆布を、晦日そばには縁起物の昆布、するめなどを入れて。
    戦前はどちらかというと節分の年越そばの方が盛んで・・・。
    松葉家はうどん屋ですが、当時はそばもやっていて注文の一・二割はそば・・・。」
     以上は老舗うどん屋をとおしてみた一昔前の大阪船場という商いの街を舞台に、暮れや節目での「うどんとそば」についての一端とそこでの年越しそばについても触れられた一説である。

     大正の終わりから昭和初め頃の食生活を詳しく再現している「日本の食生活全集27 大阪の食事」では、「大阪町場の商家」の大晦日について「除夜の鐘を聞く前につごもりそばを食べる。ゆでそばを買い、だし汁はおこぶ(こんぶ)とかつ節でとり、青ねぎを小口切りにして散らす。」
    「月給取りの食」では「11時すぎに出前してもらったみそかそばを食べ」「かけそばだが、ふだんは出前などとることがないので・・・なんとなくあらたまった気分になる」。
     また、「河内(旧大和川流域)の農家」では「地域によってはつごもりそばを食べるところもある」となっている。
    泉南地域の中でも古い伝統のある土丸地区で行った調査「土丸の民俗」(泉佐野市民俗調査報告書第一集)にも、立冬から冬の行事のなかでツゴモリソバが記録されて「大晦日に細く、長く生きるようにとつごもりそばを食べた」とある。
     聞き書き 伊丹のくらし 〜明治・大正・昭和〜 伊丹市立博物館発行」という書物の「主な行事とごちそう」のなかで、昆陽と西桑津地区では「つごもりそば」という表現であるが、荻野地区になると「みそかそば」と呼び方が変わっていていずれも年越しそばについて書かれている。
     これらの他でも、大阪からは遠く離れた奈良県曽爾村でも、戦前(昭和初期)までは畑にソバを作っておいて、家で粉に挽いてオオツゴモリソバを食べたと「大和の村落共同体と伝承文化 中田太造著」には記されている
    このように 大阪やその周辺地域の多くで、大晦日や節分に年越しそばが登場していたことがわかる。
 「年越しそばの由来と歴史」について
    「年越そば」の由来については昔から諸説ある。
    蕎麦切りの古い資料や文献、歴史など体系的なそば文化史をまとめ「そば学」を集成したとされる市井のそば研究家に新島繁氏(01/1故人)がおられる。そば関係の本などではそば博士としてその説が多く引用さていて、少しでもそば切りの事をかじった人ならばだいたいは知っている。
    その新島繁氏の説による「年越そば」の由来は(これらはすでに、たいがいのそばの本に紹介されていることであるが)
    @鎌倉時代、博多の貿易商で宗人謝国明が年の瀬に蕎麦掻きをふるまったところ貧しい人達にも翌年から運が向いてきたことからという説
    A室町時代、関東三長者の一人が大晦日に無事息災を祝って家人と共にそばがきを食べた
    B金銀細工師が散らばった金粉などを寄せ集めるのに、練ったそば粉にくっつけたことから金銀を寄せ集めるという縁起説
    もう一つの縁起説ではそばの実の三角錐からくる帝・みかど説もある
    Cそばは伸ばして細く長く切るので、身代や寿命も細く長くという説

     この他にもいくつかの説があるが、だいたいは「蕎麦掻き」などのことであり「細く長いそばの麺線」からくる由来はすくない。
    どれが本当の由来なのかは分からないが、やはり私たちには子供の頃から聞かされてきた「細く長く」が一番理解しやすいように思う。

     年越しそばの歴史的な背景をみた場合、近世から明治・大正を通じて、日常生活のなかで多くの人は「米の飯」を食べることはできなかった。農村や山間地帯は言うに及ばず庶民にとっては麦類や雑穀類が主食であり、芋や野菜類が食生活の中心であった。そして、「米の飯」を筆頭に「餅・粟餅」「蕎麦・蕎麦切り」などは、元旦や節分、盆、大晦日、そして氏神様の祭りなど、重要な年中行事やハレの祝い事の特別な「ご馳走」としての食べ物であた。
    特に、新しい年を迎えるに当たり、丸くふくよかで満ちた形に円満と団らんを願い二つ重ねて福徳の重なることを祈念しながら鏡餅を供え、細くて長くつながった「そば」で来る年の繁栄と長寿を願いながら大晦日や節分に食べたのが「年越しそば」の始まりではなかろうか。

     古来からの一年の節目は、年を越して新年を迎える暮れの大晦日と節分であった。その大晦日には多くの地域で「年越そば」を食べるしきたりがあって土地土地でそれぞれ違った呼び方をされてきた。大阪や京都周辺では「つごもりそば」とか「みそかそば」、東京で「みそかそば」、岡山県上道郡(赤磐郡)の「暮れそば」といった年の節目を指す表現と、東北の一部の「運そば・運気そば」、「歳とりそば」「大年そば」や「福そば」寿命そば」など運や福、長寿など、さらには旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願う「年切りそば」や、回顧しながら食べる「思案そば」など様々であるが、全国的な共通語となるとそれらを総称してやはり「年越しそば」である。

     東北や甲信越の一部には元日を祝う正月そばを打つところもあった。
    泉光院 江戸旅日記(山伏が見た江戸期庶民のくらし 石川英輔著)」は、日向国・佐土原(宮崎県宮崎郡佐土原町)の山伏寺住職・泉光院が文化九年から十五年(1812〜18)にかけて諸国を旅した修行日記で、その中で甲斐国下積翠寺村で正月を迎えている。
    「元日の朝七ツ(四時頃)、そばを儀式に食し、すぐに鎮守へ行った後で雑煮を祝う習慣」「親類や近所の人が年礼に来たときも、最初はそばを出して、後で雑煮を出す習慣」とある。ここでは、大晦日の最後の食事として年越しそばを食べるのと、新年の最初の食事にそばを食べるのとはもともと一続きの風習だったらしいと記されてる。
     新島繁氏によると、節分は大寒の末日で、冬の節が終わって春の節に移る時であり、立春を年の改まる日と考えて節分の夜を「大年」「歳の夜」などと呼ぶ風習が広く行われていたそうだ。
     文化11年(1814)刊大坂繁花風土記」にある年中行事の条では、「正月十四日」について、十四日年越とて、節分になぞらえ祝ふ。この日蕎麦切を食う人多し。とあり、「十二月三十日」は、晦日そばとて、皆々そば切をくろふ。当月節分、年越蕎麦とて食す。
    とあって、京阪地方では節分に年越しそばを祝うところが多かったことも記されている。

     このように、年越しそばは各地で多く見られる伝統的な風習であるが、一方には年越しそばを食べなかった地域もたくさんあって、それらの地域が互いに隣接していたり混在していた例も多いという実態もある。なかにはある地域または一族の言い伝えのなかに蕎麦やソバの花にまつわる不幸な伝承があって儀式としてのそばを食べないというケースも見られた。
    江戸時代の後期、桑名藩下級武士の父と、越後柏崎飛び地領に赴任中の(養)子が交わした生活の交信日記があって、桑名では年越しそばをそば屋に食べに行く毎年の様子を書き、一方、年越しそばの風習の無かった柏崎からは、天保十年(1839)「大晦日にそば切りを買いに遣わしたが、そば切りなど一切無之よし」「これまで御陣屋内にて大晦日にそば切りなど食べ候者は無之ことのよし・・」とあって、三重・桑名の年越しそば風景と、新潟・柏崎には年越しそばの風習が無かったことを書いている。
    桑名日記」と「柏崎日記」のなかの記録である。
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