そばの文化    <  サイトへ移動   .
 一茶と蕎麦 − そばの俳句 −  
     小林一茶の故郷は信濃国水内郡柏原村で、黒姫山(2053m)の麓の雪深い里である。この地域は、良質のソバが穫れることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育った。五十歳で再び故郷に戻り文政十年(1829)六十五才の生涯を終えている。
    その発句(俳句)はおよそ二万句とも言われ、その中に33句とも35句ともいわれる蕎麦を詠んだ句を残している。ここでは、そのなかのおよそ半分の句を選んだ。

    ○「更しなの蕎麦の主や小夜砧」は、享和3年(1803)41歳の句。小夜砧(さよきぬた)の砧は、今は見られなくなったが布を軟らかくするために木槌で打つ台や打つことをいう。「小」は美称で、夜砧、宵砧、遠砧など季語である。そば生地を綿棒に巻いて打ち板の上で延しているリズミカルな音が聞こえる。今風に解釈すると、そばの主(あるじ)は更しなそばを名目にする江戸のそば屋となるが、同じ享和句帳に「更しなや闇き方には小夜砧」があり、(蕎麦の産地である)信濃の更しなであろう。

    ○「そば所と人はいふ也赤蜻蛉」は文化4年(1807)、ソバは他家受精作物で花が咲きだすと実に多くの虫たちが飛来する。白い花々にはどの昆虫も似合っているが、なかでも白い花の高見に留まり、ときに低空に飛ぶ赤とんぼとの風景は格別である。そばの花も赤とんぼもともに秋の季語である。

    ○「そば時や月の信濃の善光寺」は文化9年、江戸から故郷柏原に落ち着く五十才の句である。8月の句なので「そば時」はそばの花で、月に映える一面のそばの花と月に照らしだされた善光寺を詠んだのであろう。

    ○「赤椀に龍も出そうなそば湯かな」はそばの茹で湯(そば湯)を詠んだ珍しい句。漆塗りの赤い椀に入れられた濃いめのそば湯の湯気が見えるようだ。「そりや寝鐘そりやそば湯ぞよそば湯ぞよ」(釣り)鐘の音が聞こえる。そば屋ではなく、どこぞでそば切りを振る舞われたあとのそば湯であろうか。いずれも文化11年の句。そば切りを食べたあとそば湯を飲む風習は信濃から始まって江戸時代の中頃になって江戸に伝わった。

    ○「山鼻やそばの白さもぞっとする」は蕎麦花の一面に広がる白の起伏から妖気漂う山里の光景ともとれるが、前書きに「老いの身は今から寒さも苦になりて」とある。故郷・北信濃は冬の到来が早い。長く厳しく雪に閉ざされてしまう冬の白さを詠んだ句である。「しなの路やそばの白さもぞっとする」「そば咲やその白さゝへぞっとする」、いずれも文化14年(1817)55歳の句である。

    ○「蕎麦国のたんを切りつつ月見哉」は、前書きに「おのが味噌のみそ臭さをしらず」とあって、酒が入ってであろうか、つい故郷の蕎麦の自慢に夢中になりながら月見をしている。十五歳で奉公に出て信濃者の悲哀を背負った一茶は、蕎麦国のたん(自慢)を切ることは江戸の者からは「蕎麦の自慢はお里が知れる(米も穫れず貧しい)」とされるのを承知の句である。前書きからもそれを読みとれる。
    文政2年(1819)8月15日は月食皆既。「亥(み)七刻右方ヨリ欠 子(ね)六刻甚ク 丑(うし)の五刻左終」(おらが春)。「そば所のたんを切りつつ月見かな」もある。

    ○「夕山やそば切色のはつ時雨」は、故郷の柏原に家庭をもち安住している文政2年11月の句である。そば殻を取り除いて甘皮に包まれた丸抜きの実を石臼で挽くそば粉は味も香りも色も良い。晩秋から初冬の初時雨は薄緑をおびた新そばの季節である。

    ○「国がらや田にも咲かせるそばの花」「田にも咲する」は文政4年(1821)の句。一見そば処の風景だが、雪深い北信濃は小麦も大麦も穫れなかった土地柄で、江戸の後期でも稲作にはあまり適さなかったのだろう。まるで現在の休耕田とソバを詠んだ句のようだ。

    ○「江戸店や初そばがきに袴客」「草のとや初そばがきをねだる客」、いずれも文政4年の12月の句である。先の句は新そば掻きを待ちわびる様を改まった袴で詠み、後の句は「草の戸」と「ねだる客」でがらっと趣を変えたのであろう。新そばに限らず、旬や初物を大切にし、季節の移ろいに敏感であった風景である。

    ○「かげろうやそば屋が前の箸の山」「そば屋には箸の山あり雲の峰」いずれも、文政6年(1823)61歳の句で、そば屋で割箸が使われだす前の、箸を洗いかえして使っていた江戸後期の店頭風景である。当時の蕎麦屋がどんな箸を使っていたかは判然としないが、竹の丸箸かせいぜい杉の角箸あたりだったようだ。ちなみに割箸(当時は引裂箸)は一茶が亡くなった文政の頃から使われだしたそうだ。ちなみに、「風流大名蕎麦 笠井俊彌著」によると、当時の川柳集である柳多留に初めて割り箸が登場するのが寛政12年(1800)だという。「割箸を片々無いと大笑い」がそれであるが、「山出しの下女割箸を二膳つけ」は文政10年(1827)で、いまだ普及の過程である。

    ○一茶の句としておなじみの「信濃では月と仏とおらが蕎麦」は有名だが、一茶の句でないとする説が有力で、一茶の書いた句文集にも、また、門人達の出版した「一茶発句集」や「嘉永版一茶発句集」にもこの句は出ていないそうだ。
    「一茶−その生涯と文学  小林計一郎著 信濃毎日新聞社」によると、この句がはじめて発表されたのは明治30年発行の「正岡子規宗匠校閲批評 俳人一茶 東京三松堂」であり、その時に材料を提供したのは柏原宿の本陣・問屋に生まれ「七番日記」を公刊し一茶同好会主として一茶の顕彰につとめた中村六郎であった。当時の中村家は、「氷そば」というのを作っていて、おそらくこれの宣伝のためにこの偽句を作ったのだろうという。
    なお、小林計一郎氏によると、明治30年当時の六郎は新進気鋭の俳人であり、さらに、著名な一茶の偽作とされる「親は死ね子は死ねあとで孫は死ね」「何のその百万石も笹の露」なども六郎の創作であろうという。


     一茶以外でも蕎麦を詠んだ句はたくさんある。その一部を紹介すると。

     松尾芭蕉は伊賀上野出身で江戸前期・寛永21年(1644)〜元禄7年(1694)の俳人
    ○「三日月に地はおぼろなり蕎麦の花」は、かすかな月明かりに映し出される一面に広がった蕎麦花の白さを詠んだ句で、やはり妖気漂う気配を思わせる句である。

    ○「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」は元禄7年秋、伊勢から弟子の斗従(とじゅう)が芭蕉を訪ね伊賀まで来てくれた。蕎麦切りでもてなすことのできない心情が汲み取れる。当時は伊賀の周辺にも広い蕎麦畑があったことや、当然のことながら蕎麦は主として旬だけの食べ物であったこともわかる。(なお、この句については菩提寺である三重県伊賀町の萬寿寺のほかに、長野県松本市郊外と長野市鳥坂峠にも句碑がある。)


     江戸中期では摂津出身の与謝蕪村 享保元年(1716)〜天明3年(1784)には、
    ○「残月やよしのの里のそばの花」は、古今集に「・・吉野の里に降れる白雪」があり、白雪でなく真っ白な蕎麦の花が咲いていると詠んだもので、桜の里にもそばが栽培されていたことがわかる。

    ○「根に帰る花やよしののそば畠」は、吉野の花である桜は既に散って根に帰ったが、いまは山里のそこかしこに白いそばの花が咲いている。この二句は花といえば桜の吉野でそばの花を詠んだめずらしい句である。

    ○「鬼すだく戸隠のふもとそばの花」は、謡曲「紅葉狩」の舞台で、鬼が集まって酒宴をひらく戸隠山の麓の気配と、そば花の一面に咲く白の妖気が漂うような戸隠の秋であろう。

    ○「新蕎麦やむぐらの宿の根来椀」は、「むぐらの宿の椀」と解すると粗末な宿にある根来塗の椀で、使い込んだ朱の漆椀に盛られた新蕎麦の情景であろう。次の句とともに、盛り入れたそばの上からつゆをかけたのであろう。

    ○「しんそばや根来の椀に盛来(もりきたる)」は、新そばの風味と根来椀の風情が重ね詠まれている。
    言うまでもなく根来椀は、秀吉の根来攻めによって途絶えた紀州根来塗りが伝わり、この黒漆を重ね塗りして仕上げに朱漆を塗るのを根来塗りと総称した。使い込むと朱の漆が薄くなり黒漆が出てきて模様のようにもなる。輪島や会津に伝わったといわれる。

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