そば切り発祥を探る その      < 次へ移動     < サイトへ移動   .

   仮説  

 さらに仮説を進めると、信濃には、平安時代末からの修験信奉の大道場で中世最盛期には俗に戸隠三千坊と言われた山岳信仰で栄えた戸隠神社がある。その後は、奥院十二坊 中院二十四坊など五十三坊ともいわれたが、隆盛を極めた。 また、この一帯には善光寺信仰が普及し、門前町だけにとどまらず宿場町としても活発な商業活動を営むなどの発展地域も控えている。
 当然のこととして、ここには他の地域に先駆けてその時々の先端技術や文化がもたらされ、その中に早くから石臼も含まれていたと考えられる。
そして、良質のソバの産地という観点からみても、古くからソバの栽培に適した戸隠高原・妙高・黒姫といった一帯を後背地に持っていた。
 さらに観点を変えると、蕎麦は修験道修行とは密接な関係にあった。
修験道の修行で行う五穀断ちは、主食を蕎麦粒や蕎麦粉に頼ることが多く日常的にもソバ(粒・粉)との関係が深かった。
例えば、天台宗比叡山の「千日回峰」は12年間の籠山の行中、五穀を断ち、塩も断って主食は蕎麦粉だけと言われる。 比叡山・無動寺の「回峰行記」(元和元年〜万延元年:1621〜1860)によると、「蕎麦は六根清浄にて峰々を廻りし後に谷清水にて溶かし これを食す」と記されている。
戸隠の修験者も、山中で五穀を断ち、わずかな野菜とソバの実を持ち歩き、粉にすりつぶし水でかいて食したと伝わっている。
修験道と蕎麦は古くから特別のかかわりを持ち、常に蕎麦粒や蕎麦粉に接して扱い慣れた集団であったことも、蕎麦切り誕生の重要な要素であったと考えられる。

戸隠神社の公式ホームページによると『戸隠のそば切りの歴史は江戸時代に始まった。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当をもてなす際、特別食として用意したのがそば切りだったと書かれています。』とある。
 一方、歴史事実では、家康が戸隠山法度を定めて、天台宗の宗教行事を行うように定め、家光は寛永2年(1625)寛永寺が創建されると戸隠神社を寛永寺の末寺として別当を派遣する。この時の立て役者は天海僧正で、まさしく慈性日記に登場する天海をとりまく天台宗の世界である。
仮説は、信濃・戸隠にはもともと古式のそば切りがあったと考える。しかし、寛永寺の支配で食の作法にも影響を受け、天台僧流のそば切りが随時伝えられた。そして別当をもてなすための「そば切りの作法」が戸隠固有のそば切りに加わって、現在に伝わる(公式ホームページの)そば切りになったと考えるのである。
また、奥院に残る宝永6年(1709)の「奥院燈明役勤方覚帳」には祭礼時に蕎麦切りが振舞われたと記されているのも同じ作法によるものと思われる。

さらに、戸隠は傾斜地を流れる水路の多い地で、昔から水車を利用した石臼で蕎麦を挽き、修験者が集う宿坊などでは細切りの上品な蕎麦切りが振る舞われ、一方農家などでは太くて色の濃い山家蕎麦が打たれてきた土地柄と聞く。

 仮に、細切りの上品な蕎麦と太くて色の濃い蕎麦と対比して考えたとき、いうまでもなく前者からは、江戸から派遣された別当をもてなすための天台僧たちの流儀で打った蕎麦切りの流れをくむものであり、後者は、戸隠本来の古式の蕎麦切りが脈々と伝わったものではなかろうか。

【 Back 】        【Top】           【Next