緑の革命



緑の革命 

 緑の革命の歴史は第二次世界大戦のころに遡る。大戦末期の1943年、アメリカは食糧を制するものは世界を制するという考えに基づき、食糧戦略の一環として効率の高い農法の研究に着手した。その推進役は後にこの緑の革命でノーベル平和賞を受賞することになるノーマン・ボーログ博士ら4人のアメリカの学者らであった。研究開発はメキシコで始まった。

 緑の革命は、まず小麦から始まった。メキシコの地で、メキシコ政府とアメリカのロックフェラー財団が設立した国際農業研究機関グループを母体とする研究機関(1966年に国際トウモロコシ・小麦センターに改組)によって、小麦の新品種が誕生した。用いられた品種は、日本の品種で矮性の「農林10号」とメキシコの在来品種で、この二つを交配することで、草丈が低く、肥料によく反応する小麦の高収量品種(メキシコ矮性品種)の開発に成功した。

 また小麦に並んで、トウモロコシの新品種の開発も進められた。

 これらの品種は、メキシコ北部太平洋岸の灌漑地方を中心に急速に普及した。その結果、アメリカから大量の穀物を輸入する食糧不足国であったメキシコが、大幅な食料増産に成功し、短期間に小麦の生産量は3倍、トウモロコシは2倍に跳ね上がり、1950年代後半には小麦の自給を達成した。

 その後、緑の革命は、1962年、フィリピンの国際イネ研究所(IRRI)が設立され、有名なコメの新品種IR8の誕生へと続くこととなる。

 インドは1962年から1966年にわたって、大不作に見舞われた。そこでインドはメキシコから1万8千tもの小麦の種子を取り寄せた。すると1968年の収量は1967年の1,130万tから1,650万t(46%増)に伸びたのである。

 その他にも、パキスタン、トルコ、アフガニスタン、ネパール、北アフリカが小麦に、台湾、フィリピン、スリランカ、インドネシアはコメに大きな期待を寄せ、耕地を提供した。1965年から1973年までの7年間までにその面積は、コメは1万haから1,700万haのへ、小麦は4万9,000haから1600万haへと急増した。

 その結果、インド以外にもパキスタンの小麦の収量は1966年から1971年までの5年間に2倍となり、またフィリピンではコメの生産量が50%増となるなど、高い 増産効果を上げ、各国の食料自給に大きく貢献した。

 ところで、1968年、アメリカ国際開発庁(USAID)のあるディレクターが年次報告書で、「フィリピン、インド、パキスタンなどの厳しい状況を見ると、食糧増産の希望は持てないと思われていた。しかし突然、この農法で事態が変わった。まるで緑の革命が起こったようなものである。」と述べた。ここに初めて、「緑の革命」という言葉が誕生したのである。



緑の革命の影響

 絶賛を浴びた「緑の革命」であったが、1970年代に入ると苦渋のときを迎えることとなる。

 1971年には増産効果にかげりが見え始め、72年にはインド、中国をはじめとするアジア諸国、さらには全世界が、異常気象による不作に見舞われてしまった。

 1971年、フィリピンでは病害虫が発生し、コメの自給を達成したばかりの同国は再び輸入国へ転落した。新品種の干ばつに対する抵抗力の弱さも指摘されるようになった。

 また、環境問題への関心の高まりにより、農学者や環境学者から、「緑の革命」は環境破壊をもたらすという攻撃も浴びることとなった。ここで導入されたハイブリッド品種(HYV種)※は特徴として、化学肥料と農薬の効果を最大限に生かすよう改良されたもので、短く堅い茎、小さくまっすぐ伸びる葉を持つ。茎が折れずに多くの穂を支えられるように、近接して植えられても互いに太陽光を妨げないように、そして根の構造も化学肥料が必要な養分を供給してくれるので在来種に比べ小さくなっている。HYV種は茎が短く太いため、よく繁った葉には虫が発生しやすく、また単一生産である点もその一因を担い、多量の農薬を必要とするし、バイオマス消費が大きいため化学肥料も水も多量に必要とするのである。これらのことにより、環境へ悪影響を及ぼすのである。

 「緑の革命」の成功のためには、新品種だけを導入しても意味がなく、それと同時に灌漑施設、化学肥料、農薬、豊富な水などの近代的投入・多額な投資を必要とする。何故ならその成果を持続させるために、農業投資を維持しなくてはいけないからだ。したがって、ある程度の土地所有規模を持った農民は新技術を採用することができたが、小農・限界農にとっては難しいことであった。投入資金貸付の制度なども設けられていたが上手く機能していたとは言えないものであり、資金が必要である小作農家にはあまり提供されず、大農家のほうが多く貸し付けをうけている状況であった。以上のことより、富農と貧農の二極分化が進んだのである。

 1961年、本格的に高収量品種の小麦を導入したインドのパンジャブ州では、驚くほどの高収量を見たが、1980年代に入り、異変が現れてきた。ウォーター・ロギングという現象により、田畑が水浸しになり、土地が多量の化学肥料の投入、そして灌漑により塩類集積を起こし、荒廃した土地となってしまった。その結果、1エーカー当たり2tだった収量が15kgにまで減り、パンジャブ州の6万haもの土地が塩害を受けた。「高収量品種と化学肥料を無計画にばら撒き、水の管理をどのようにするか知らされていなかった」と、塩類集積により5分の1の土地を失った農民は話した。

 次項で詳しく述べるが、この「緑の革命」は80年代後半からいわゆる第三世界にも広められた。そこでも食糧自給に大きく貢献するわけであるが、その後結局飢餓が広がったという見解もあるのだ。

 ※High Yielding Varieties すなわち高収量品種のことで、HYV品種は、「一代雑種品種」とか「一代交配品種」とも呼ばれ、雑種強勢を利用し、種内交配を行い生み出された、新品種のことである。一方の遺伝子の欠陥を、他方の遺伝子が補うため、雑種強勢となるわけである。



笹川グローバル2000プロジェクト

 1983年から84年にかけてアフリカのエチオピアでは、200万人もの犠牲者を出す大飢饉が起こった。そこでエチオピアの人々を救済すべく、動き出したのが、日本船舶振興会(現日本財団)の笹川陽平理事長をはじめ、カーター元アメリカ大統領、「緑の革命」の創始者であるノーマン・ボーログ博士が提唱した「笹川グローバル2000プロジェクト(SG2000プロジェクト)」である。

 プロジェクトの第一歩として、1985年、世界飢餓会議が開かれ、世界中から農学者、経済学者、人口学者、銀行家、そしてアフリカ諸国の政府関係者らが集められた。

 そこで、アフリカの食糧問題を解決し、人々を飢餓から救うには、やはり「緑の革命」しかないと結論付けられたのである。

 そして、80年代後半から90年代にかけて、エチオピアだけでなく、アフリカ各国、特にサハラ砂漠以南の国々で、トウモロコシやソルガム(モロコシ)においての「緑の革命」農法が広まっていったのである。

 結果は大成功であった。各国で収量は驚くほど上がり、多くの人々が飢餓から救われたのである。また、食糧自給を達成した国も多く生まれた。「緑の革命」によるSG2000プロジェクトは多くのアフリカ諸国の経済的自立にも大きく貢献したのである。

 「緑の革命」に対して、前項のような批判がある中で、このSG2000プロジェクトに関しては特筆すべきであろう。

 ところが、皮肉なことに、今度は一転して、豊作により穀物が余り、市場価格低下の問題が起きてしまった。その分輸出することができるという点では、やはり「緑の革命」の貢献は大きいといえる。しかし、農薬や化学肥料などを用いる近代的農業は、コストのかかるものであり、農家の経営を圧迫した。その累積債務に加えて、その国で作られる穀物は輸出され、自国の人々の口に入るものではなくなったことによって、飢餓が広がったというのである。

 やはりここでも「緑の革命」の落とした影は大きいのであろうか。

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参考文献・ホームページ

 『「飢餓」と「飽食」』 荏開津典生著 講談社

 『世界の食糧と農業』 松島正博編 家の光協会

 『東南アジア農村発展の主体と組織―近代日本との比較から―』 加納啓良編 アジア経済出版会

 『人間の大地』 犬養道子著 中央公論社

 『緑の革命とその暴力』 ヴァンダナ・シヴァ著 浜谷喜美子訳 日本経済評論社

 『よみがえれアフリカの大地 笹川グローバル2000の軌跡』 山本栄一著 ダイヤモンド社

 http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/

 http://www.cimmyt.org/

 http://shiba.iis.u-tokyo.ac.jp/

 http://www/jcer.or.jp/