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母国語のゆくえ |
2015. 10. 14 |
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日本語の乱れが指摘されて,ひさしい。乱れを助長しているのは,うたがいもなくマスコミである。しかも,NHKは局の方針なのだろうか,聞き慣れない,一般化もしていないカタカナ語(外来語)が大好きで,普及に躍起のようだ。対応する立派な日本語があるにもかかわらず,である。いまや,テレビ,ラジオ,新聞,雑誌,インターネットなど,マスコミ全体が低俗なメディアになりさがっている。昭和30年代に,評論家の大宅壮一(1900-70)がテレビの出現は国民を「一億総白痴化」するとうったえた慧眼におそれいるとともに,テレビだけを槍玉にあげられた時代がなつかしく,恋しくもなる。
マスコミはあたかも一丸となって,誤用だらけの言葉,あまりに恥ずかしい日本語を垂れ流し,世の中にあふれさせている。その結果,“おかしな“日本語は,いつしか大手を振ってひとり歩きをはじめる始末。正誤の判断は,受けとる側ができると考えているとしたら,勘違いもはなはだしい。ほんのすこしだけ想像力をはたらかせば,だれにでも理解できるはずだ。マスコミの発信する言葉に注意をはらい,辞書をひいて正誤を確かめる,そんなめんどうくさい作業をする研究者はいても,一般市民はまず考えられない。なにより,素養の点ですでに致命的だ。大宅の発言から約60年,その年月をはるかに越えて,日本の中学・高校は正しい日本語を教えることなく 成果があがっていないとしても 英語=外国語教育に精を出してきたのだから。 日本語は日本人の母国語である。日本国と日本人の文化そのものである。それを軽んじ,あなどり,粗末にしている現実をマスコミ自身が深刻に受けとめずに,今後もこれまでと変わりないとしたら,この国は“恥ずかしい国”へまっしぐらである。 |
涙の音 |
2015. 5.24 |
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イタリア最大の都市ミラノは,ファッションの発信地だけでなく,美術館や博物館など観光地としても見所が多い。なかでもサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会に併設された建物には,レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の有名な壁画「最後の晩餐」が保存されている。おおがかりな修復後,拝観が予約制になる盛況ぶりである。だが,わたしには,ここ以上に心ひかれ,ミラノへ行くとかならず足を運ぶ場所がある。スフォルツェ城内にある博物館だ。
ここにはレオナルドとならぶ,ルネッサンスの巨人ミケランジェロ・ブォナロッティ(1475-1564)の最後の作品「ロンダニーニのピエタ」が展示されている。ピエタとは,聖母マリアがイエスの遺体を膝に抱いて嘆く姿を表現した絵画や彫刻である。製作途中で作者が亡くなったため,完成を見ていないのがかえすがえすも残念だけれど,逆にそれだからこそ,彫琢されぬままに残された像の表面の荒々しいノミの痕跡が鮮烈な印象をあたえる。それを見ていると,わたしには,命を削るようにしてノミをふるうミケランジェロの息づかいが聴こえてくるのである。そしてまた,かれの体温までもが,なまなましく手にとるように感じられる。これは貴重な体験である。
ミケランジェロは,ほかにも「ピエタ」を何点も残している。もっとも有名なものは,ローマ・ヴァチカンの大聖堂内に置かれた白い大理石が美しい,慈愛に満ちた聖母マリアの表情とその膝のうえで横たわる永遠の眠りについたイエスの姿が印象的な傑作である。そのほかフィレンツェにある,アカデミア美術館のダビデの部屋にも完成をみていない数点が展示されている。
高さが4メートル以上もあるダビデ像を,まぢかではじめて見たときの感動はいまも鮮烈だ。制作年代は1504年というから,若き日のミケランジェロの横溢する生命力がダイナミックな力強さをうみだしている。これにくらべると,最後の「ピエタ」から感じとれるのは衰弱といえばいえなくもない。だが,そうでありながらも,まだ完全には衰えきっていない創造への意志の力が,ノミの痕跡の一筋一筋に宿っているようで胸をうたずにいない。そして,偉大な芸術家の晩年に共通する,崇高で清澄な精神が透けて見えるようで感動的である。
わたしは,「ロンダニーニのピエタ」の向こうに,ふと19世紀ドイツの作曲家ヨハネス・ブラームス最晩年の音楽を聴いてしまう。いったん創作をやめたはずのブラームスが,ふたたび筆を執った「四つのピアノ小品」がそれだ。この作品を支配する,人のつぶやきにも似たピアノの音たちはどうだ。なんと純粋で透明清冽な美に満たされているのだろうか。わたしには,ブラームスの涙の音にも聴こえてくる。人は死を前にして何を思うのだろうか。美しくも哀しい音楽は,死を超えて希求する清澄な地平でもあるだろうか。
きっとミケランジェロは,マリアのふかく重く悲しい魂の涙をも,ピエタに刻みつけたかったにちがいない。(他サイトで公開済みの文を追加修正) |
音楽の水先案内人 |
2015. 5.23 |
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往年の名ピアニスト,リリー・クラウス(1903-86)のCDをはじめて買った。モーツァルトのピアノ・ソナタ全集(1967-68年録音)だ モーツァルト(1756-91)といえば,中学時代にはじめて聴いたセレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が忘れられない。クラシックに目覚めたばかりのわたしは,次から次へとあふれ出るメロディの美しさと愛らしさに胸がはずんだものだ。そののち,交響曲や協奏曲,室内楽曲,宗教曲と聴いていって,ピアノ・ソナタを愛聴するようになったのは20代も後半である。 今回買ったクラウスの演奏は,たとえばマニエリスム的傾向がつよい個性的なグレン・グールドやワレリー・アファナシエフ,あるいは内田光子の人工的ともいえる微に入り細をうがった緻密な音の構築物とは対極にある。実際は計算しつくされた演奏であろうとも,そんな痕跡を感じさせない自然なみずみずしさと激しさは,希代の天才作曲家によるわき出るメロディを,とびきり透明で軽やかな美音とひらめきを武器に天衣無縫に弾いているかのような美しさに彩られている。だからであろう,モーツァルトの音楽が頭ではなく,胸にスーッとしみこんでくるのだ。
さまざまな演奏にふれるのが,クラシック音楽の楽しみでもある。クラウスはいうまでもなく,グールドや歴史に名をきざむ大ピアニストたちをはじめ,愛聴するマリア・ジョアン・ピリスも内田もアファナシエフも,わたしを広大で深淵な音楽世界へ連れて行ってくれる偉大な音楽の水先案内人たちである。 |
アレルギーをぶっとばせ! |
2015. 5.22 |
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今年のゴールデンウィークは地味にすごした。遠出をせず,ちかくのショッピングモールのなかにある飲食店で食事をし,別の日にちかくの美術館へ絵画展を観に行った。でも,じつに感動的な体験をした。絵画に魂をゆさぶられたという高尚な話ではない。エビフライに心がふるえたのである。 6,7年まえのある日,とつじょ甲殻類アレルギーになって以来,エビを食べると拷問なみの苦痛に見舞われるため,食べることができなくなった。それでも,最近はすこしずつアレルギー源を体内に入れて抗体を作る治療法があると知り,素人療法ながら少量なら食べるように体をならしてきた。去年は小エビを2,3尾程度なら食べられるようになり,今年にはいって,大きめのブラックタイガーなら1尾くらいはいけるまでになった。もともと,エビが大好物だったから,感無量だった。おなじような経験のない方には理解できないかもしれない。
こうした経緯の延長に,くだんのエビフライが待っていた。食べることができたその事実に感激するとともに,そのおいしさに感動した。からっと揚がったぷりぷりのエビの触感もさることながら,タルタルソースとの絶妙な味の調和は,かの魯山人ですら舌鼓を打ったにちがいない。エビフライはこんなにもおいしいものなのだ。 すっかり忘れていた味覚の記憶。これはおおげさではなく,人生の再発見といっていいかもしれない(笑) |
アザミのハチミツ |
2015. 5.21 |
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3月のホワイトデーに,大阪の阪神百貨店でハチミツを買った。二十種類以上はあったろうか,そのなかのいくつかを味見してみて,店員さん”おすすめ”のアザミのハチミツにした。ハチミツは蜂が花の蜜を集めたものでできている。だから,花によって味がぜんぜんちがってくる。日本のハチミツといえば,レンゲが相場らしい。わたしはハチミツの甘さはしつこく感じられ,好きではない。ところが,アザミの軽くさわやかで可憐な味わいに出会い,はじめてハチミツをおいしいと感じたのだった。さ〜て,つぎは何の花のハチミツに挑戦しようか! |
ホームページ刷新 |
2015. 5.20 |
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新年度がはじまったことだし,数年ぶりに完全リニューアルをおこなった。今回のコンセプトは《スッキリ》だ。そのためにも文字の美しさにこだわり,Googleの提供するwebフォントをつかわせてもらった。Googleさまには感謝申しあげます。また,卒業生のために作った電子版・卒業アルバムの画像もつかわせてもらいました。彼女たちに,ここでお礼を申しあげます。
なんとかできあがったものの,いまどき table タグをつかう人もいないだろうけど,div のことはまったくわからないし,勉強する意欲もない。ともかくも,サイト構築ですっかり疲れはててしまった。 |
橋本市長が政界引退を明言 |
2015. 5.18 |
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17日におこなわれた大阪都構想の住民投票で,反対票が過半数を超えた。橋下市長は大勢判明後の記者会見で,12月の任期満了をもって政界を引退する,とあらためて明言した。かれについて,強引だとか乱暴だとか非難はあるけれど,住民の人気取りにはしる政治家ばかりが目につくようになったいまの日本にこそ,かれのようなビジョンを実現しようとする強い信念と実行力をもつ政治家が必要なのではないか。好き嫌いをこえて,そう感じる。 |
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