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『カイユボット 神に挑んだ画家』を出版
2019. 03. 20
前著に続く絵画評論である.昨年末になんとか出版することができた.原稿は4月時点で書きあげていたものの,体調のせいで推敲と校正で予想外に手間取り,本の完成までにずいぶんと時間がかかってしまった.それでも,年内に出版できたことは幸いだった.2018年は処女作の『雨月物語の探求』から25年の節目にあたることから,なんとしても本を出したかった.
今回も京都の青山社と編集者の保野氏にお世話になった.出版が協同作業であることを,今回ほどおもい知らされたことはない.わたしの体調が影響したことはいうまでもなく,図版が310以上もあったからだ.1冊の本をつくることは過酷な作業である.経験しないかぎり,理解することはもちろん,想像することもできないだろう.ただ,苦行でありながら堪えられるのは,約束された光明をめざす旅だからだ.
カヴァーは2年まえのマネの本とはちがい,あっさりしたものになった.ニューヨークの超高層ビル群のはなつパワフルなイメージが,構図の歴史的展開のなかにカイユボットの真俯瞰構図を定位する内容にふさわしく感じられたので,写真に手を加えることを最小限にとどめた結果だ.
『マネ◎パリ愛とふしぎの絵画』を出版
2016. 07. 11
2月末に新作を出版して,はやくも4ヶ月がたってしまった.前作から6年,長かった.原稿は2年まえに書き終えていたけれど,出版社が見つからなかった.いまどき研究書を出版してくれる会社を見つけることがどれほどむずかしいか,ましてや地方公立大学の教員には至難だ.
今回,お世話になった出版社は京都の青山社だ.フランスの文学や文化を中心にした出版をされており,雑誌に投稿させてもらっているご縁があったし,編集者が「超」のつく優秀な方で,わたしはおんぶに抱っこ状態で本作りをお任せできた.なにせ19世紀フランスの画家エドゥアール・マネのなぞ多き絵画を読み解いた内容だから,フランス語の素養がないわたしを編集者がどれほどサポートしてくださったことか! 誇張なしに「なにからなにまで助けてくださった」し,本作りばかりでなく文学や言語に関しても多くを学ぶことができた.しかも,念願の装丁まで手がけさせてもらえたのだ.少年時代にデザインを学んでいた者として,喜びはひとしおであった.これには印刷所のデザイナーさんのご助力も大きい.ほかの出版社ではこうはいかなかったと断言できる.ただただありがたく,感謝以外に言葉が見つからない.
ふり返れば,これまででもっとも苦労し,もっとも大部となった.それだけ思い入れも大きい作品だ.ひとりでも多くの方に読んでもらいたい.
ポルトガルのファド
2016. 07. 07
「ファド」について知識のある日本人はそう多くないだろう.イタリアの「カンツォーネ」やフランスの「シャンソン」にくらべれば知名度はゼロに近いはずだ.「ファド」はふかい感情表現を特徴としたポルトガル民衆の歌である.「運命」が原義というだけあって,人生を歌ったものが多いようだ.ラテン音楽ファンでも知っているのは,せいぜい「暗い艀(はしけ)」程度ではなかろうか.
ファドをはじめて聴いたのはもう20年ほどまえの1997年夏,ポルトガルの首都リスボンを訪れたときだ.この季節のヨーロッパは大陸性気候というものだろうか,からっとしている.蒸し風呂のような高温多湿がふつうの日本では考えられない快適さだ.朝方は寒いくらいだし,じりじりと焼けつくように暑い日中でも,屋外では日陰にいれば涼しいし,室内ではたいていエアコンなど必要ない.窓を閉めるだけでいい.南ヨーロッパではまちがっても全開にしてはならない.熱風が吹きこんでくることがあるからだ(ヨーロッパ旅行になれない頃は,日本人の習性で窓を開け放って失敗したものだ).そして陽が落ちれば,昼間の暑さがウソのようにすごしやすくなる.
その夜は雰囲気のよいファド・レストランで夕食をとることになった.店内にはいると一隅には小さな舞台があって,照明が落ちるとスポットライトのなかに男女の歌手がかわるがわる登場し,ファドを数曲ずつ披露した.舞台の両脇奥には椅子に腰掛けたギター奏者が 2 人.はじめて聴くファドは,なにかしら懐かしさを呼びおこすようなメロディと雰囲気があった.きっと日本の民謡や演歌をおもわせる節まわしをもっているせいだろう.ライブでありながら,2人の歌唱力は驚異的であった.クラシックの声楽家もふくめて,ここまで聴かせる日本人の歌手は残念ながらおもいあたらない.
歌以上にわたしを驚かせたのは,憂愁に満ちたメロディを奏でるギターである.心の襞をふるわせ魂を揺さぶるほどの衝撃であった.スーパー・テクニックにも感嘆したけれど,それにもまして技術を超えて聴く者に肉迫する表現力に胸をうたれた.演奏していたのは,”巨匠”と讃えられている小柄の老ギタリストとすこし若い腕利きの奏者.終演後のさめやらぬ興奮と余韻のなか,巨匠と握手をさせてもらったことはいまだに忘れえぬ思い出である.(他サイトで公開済みの文に加筆修正)
ホームページお色直し
2016. 02. 08
新作の出版が2月下旬に決まった.後期試験の採点もほぼ終ったので,この時期をとらえてホームページのお色直しに着手.基本的にフォントのサイズ調整とメニューのデザイン変更だ.
レコード店のおねえさん
2016. 02. 07
クラシック音楽をかじりはじめてまもない頃,学校からの帰りに街でいちばん大きなレコード店に立ち寄っては,棚やラックにびっしり並んだレコードを興味をもって眺めたものだ.CDが登場するずいぶん前のことである.クラシック演奏家の知識なんて,せいぜい指揮者のカール・ベーム(1894-1981),ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-89),ラファエル・クーベリック(1914-96),レナード・バーンスタイン(1918- 90)程度,ピアニストやヴァイオリニストにいたっては無知に近かった少年にとって,さまざまな演奏家のレコードがひしめく店内は宝の山のように感じられた.当時のレコードの値段は,現在のCDよりも高かった.少年のひと月分の小遣いで買える代物ではなかったから,親にねだるか小遣いを貯めて買うかしか方法がない.たとえ買えなくても,足しげくレコード店へ通っているうちに店員のおねえさんに顔を覚えられるまでになった.
ある日,ようやく貯まったお金を手にレコード店へ走った.ドイツの作曲家メンデルスゾーン(1809-47)のヴァイオリン協奏曲のレコードがほしかったのだ.まだ聴いたこともない,古今の名曲として知られる作品への期待で胸がふくらんでいた.しかし,だれの演奏がいいのかなんてまるきりわからない.親しくなった店のおねえさんにその旨を伝えると,彼女は数えきれないレコードのなかからていねいに数枚を取りだしてくれた.が,どれを買えばいいのか見当もつかない.とまどっているわたしに薦めてくれたのがアイザック・スターン(1920-2001)がヴァイオリンを弾き,ユージン・オーマンディ(1899-1985)が指揮したフィラデルフィア管弦楽団の演奏(CBS SONY)だった.これが代表的名盤であることは,かなり後で知って喜ぶことになる.このときは目のまえに置かれたレコードジャケットの写真の美しさ,とくにあじさいの彩りがとても気にいったのだった.
当初の目的に反して,わたしはカップリング曲であるチャイコフスキー(1840-93)のヴァイオリン協奏曲のほうに惹かれた.せつなく甘く人なつこいメロディにすぐさま魅せられ,終楽章の疾駆するかのようなスポーツ的快感にも酔いしれた.以後,このレコードはながらく愛聴盤としてくりかえしくりかえし針を落とされることとなり,「メンチャイ」(この2曲をさす略称)のスタンダードとなったのである.
今となっては記憶が曖昧なのだけれど,これがはじめて買った協奏曲のレコードだったとおもう.そのことが関係しているのだろうか,レコードジャケットの印象は薄れることなく,いまでも梅雨時にあじさいを目にするとこの曲がむしょうに聴きたくなる.そして,あのおねえさんと少年時代の自分をおもいだす.(他サイトで公開済みの文に加筆修正)
ささやかな愉しみ
2016. 01. 31
はやいもので,年が明けて1ヶ月になる.今年の初詣は40数年ぶりに元旦を選んだ! 4日か5日に詣でることがふつうになっていたからだろうか,自分でもふしぎなほど気分が高揚した.もっとも,目的の寺社があったわけではない.適当に近所を歩いていたら三社詣の場所があり,驚きとともにうれしい発見となった.神社のある小山の上には,姫路城や家々が一望できる見晴台が美しく整えられてあった.芝生の匂いが心地よく,散歩にもってこいのスポットである.予想もしていなかった愉しみを手にいれ,得した気分で帰路についた.
愉しみといえば,初夏に書いたハチミツの続報である.年末に2種類のハチミツを買った.フランス産ひまわりとイタリア産レモンだ.そのおいしさたるや,どちらもアザミを超えた.前者は口に入れると実にまろやかで,やわらかな花粉の風味がひろがり,食べたこともないのにひまわりの「味」を実感した.そして,後者はさわやかでスッキリ,フルーティだ.こんな美しい味に出会ってしまうと,レンゲのハチミツにはもう戻れない.最近はくまのプーさん状態で,機会があればスプーンでペロペロ.子どもなら親にたしなめられるだろうけど,おとなともなればそんな煙たい存在はいない.まさに堂々たる愉しみである.
母国語の未来
2015. 10. 14
日本語の乱れは今にはじまったことではないけれど,ここ数十年は加速度的に嘆かわしくなっている.乱れを助長しているのは,うたがいもなくマスコミだ.しかも乱れに棹さすように,天下のNHKはなにをめざしているのだろうか,「コンプライアンス」のような聞き慣れない一般化もしていないカタカナ語(外来語)の普及に躍起になっている.外国固有の言葉ならいざ知らず,対応する立派で美しい日本語「法令遵守」があるにもかかわらず,である.
こんなNHKに影響されたためか,あるいはカタカナ語の魅力に憑かれているからか,もしくは日本語がきらいだからか,たしか去年,ある企業は不祥事の謝罪記者会見で「コンプライアンスの遵守に努めます」などという奇妙きてれつな発言をしていた.謝罪するなら,こんな“おかしな“日本語ではなく,“正しい“日本語でやれよ! といいたかった.これでは恥の上塗りである.
日本はずいぶんまえから世界有数の老人大国である.いまや年老いてしまわれた先人たちが,このゆたかな日本を築いてくださったのである.その老人の方がたが視聴者の多くを占める公共放送であるにもかかわらず,意図的に母国語を使わないのは日本と日本人にたいする冒とくである.いうまでもなく“おかしな“日本語を発信しているのは,NHK一社だけではない.ほかの放送局も新聞も雑誌もインターネットなども,すべてのマスコミが母国語を軽んじ粗末にして堂々たるものだ.厚顔無恥そのもののメディアの所行を「国辱的」,あるいは「国賊的」といわずになんといえばいいのだろう.
マスコミはあたかも一丸となって誤用だらけの言葉,"恥ずかしい"日本語を垂れ流し,世の中にあふれさせている.その結果,“おかしな“日本語はいつしか大手を振ってひとり歩きをはじめる始末.正誤の判断は受けとる側ができると考えているとしたら,勘違いもはなはだしい.ほんのすこしだけ想像力をはたらかせば,だれにでも理解できるはずだ.マスコミの発信する言葉に注意をはらい,『広辞苑』や『日本国語大辞典』などの辞書をわざわざひいて正誤を確かめる,そんなしちめんどうくさい作業をするのは研究者か言葉にこだわりをもつ有志くらいであろう.一般市民にはまず望めない.なにより一般市民は素養の点ですでに致命的だ.戦後70年,日本の中学・高校は正しい日本語を教えることなく,英語=外国語教育に精を出してきたのだから.皮肉なことにその努力は,かんばしい成果をあげていない.戦後教育の結果は正しい母国語も話せないうえに,英語もろくに操れない国民を大量に生みだした,というお粗末.
日本語は日本人の母国語である.日本国と日本人の文化そのものである.それをあなどり粗末にしている現実を,マスコミ自身はいうまでもなく政府が深刻に受けとめずに今後もこれまでと変わりないとしたら,この国は"おかしな国"をとおりこして,“恥ずかしい国”へまっしぐらである.
涙の音
2015. 05. 24
イタリア最大の都市ミラノはファッションの発信地だけでなく,世界有数のオペラハウスであるスカラ座をはじめ美術館や博物館など観光地としても見所が多い.なかでもサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会に併設された建物には,レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の有名な壁画《最後の晩餐》が保存されている.おおがかりな修復後は拝観が予約制になる盛況ぶりである.だがわたしにはここ以上に心惹かれ,ミラノへ行くとかならず足を運ぶ場所がある.スフォルツェ城内にある博物館だ.
レオナルドとならぶルネッサンスの巨人ミケランジェロ・ブォナロッティ(1475-1564)の最後の作品《ロンダニーニのピエタ》がここには展示されている.ピエタとは,聖母マリアがイエスの遺体を膝に抱いて嘆く姿を表現した絵画や彫刻である.製作途中で作者が亡くなったため完成を見ていないのがかえすがえすも残念だけれど,それだからこそ逆に,彫琢されぬままに残された像の表面の荒々しいノミの痕跡が鮮烈な印象を与える.それを見ていると,わたしには命を削るようにしてノミをふるうミケランジェロの息づかいが聴こえてくるのである.そしてまた,かれの体温までもがなまなましく手にとるように感じられる.これは貴重な体験である.
ミケランジェロはこのほかにも「ピエタ」を何点も残している.もっとも有名なものは,ローマ・ヴァチカンの大聖堂内に置かれた白い大理石が美しい,慈愛に満ちた聖母マリアの表情とその膝のうえで横たわる永遠の眠りについたイエスの姿が印象的な傑作である.そのほかフィレンツェにある,アカデミア美術館のダビデの部屋にも完成をみていない数点が展示されている.
高さが4メートル以上もあるダビデ像をまぢかではじめて見たときの感動はいまも鮮烈だ.制作年代は1504年というから,若き日のミケランジェロの横溢する生命力がダイナミックな力強さをうみだしている.これにくらべると最後の「ピエタ」から感じとれるのは,衰弱といえばいえなくもない.だがそうでありながらも,まだ完全には衰えきっていない創造への意志の力がノミの痕跡の一筋一筋に宿っているようで,胸を打たずにいない.そして偉大な芸術家の晩年に共通する,崇高で清澄な精神が透けて見えるようで感動的である.
わたしは《ロンダニーニのピエタ》の向こうに,ふと19世紀ドイツの作曲家ヨハネス・ブラームス(1833-97)最晩年の音楽を聴いてしまう.いったん創作をやめたはずのブラームスがふたたび筆を執った「四つのピアノ小品」がそれだ.この作品を支配する,人のつぶやきにも似たピアノの音たちはどうだ! なんと純粋で透明清冽な美に満たされているのだろうか.わたしにはブラームスの涙の音にも聴こえてくる.人は死を前にして何をおもうのだろうか.美しくも哀しい音楽は,死を超えて希求する清澄な地平でもあるだろうか.
きっとミケランジェロは,マリアのふかく重く悲しい魂の涙をもピエタに刻みつけたかったにちがいない.(他サイトで公開済みの文に加筆修正)
音楽の水先案内人
2015. 05. 23
往年の名ピアニスト,リリー・クラウス(1903-86)のCDをはじめて買った.モーツァルトのピアノ・ソナタ全集(1967-68年録音)だ
モーツァルト(1756-91)といえば,中学時代にはじめて聴いたセレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が忘れられない.クラシックに目覚めたばかりのわたしは,次から次へとあふれ出るメロディの美しさと愛らしさに胸がはずんだものだ.そののち交響曲や協奏曲,室内楽曲,宗教曲と聴いていって,ピアノ・ソナタを愛聴するようになったのは20代も後半である.
今回買ったクラウスの演奏は,たとえばマニエリスム的傾向がつよい個性的なグレン・グールドやワレリー・アファナシエフ,あるいは内田光子の人工的ともいえる微に入り細をうがった緻密な音の構築物とは対極にある.実際は計算しつくされた演奏であろうとも,そんな痕跡を感じさせない自然なみずみずしさと激しさは,希代の天才作曲家によるわき出るメロディを,とびきり透明で軽やかな美音とひらめきを武器に天衣無縫に弾いているかのような美しさに彩られている.だからであろう,モーツァルトの音楽が頭ではなく胸にスーッとしみこんでくるのだ.
さまざまな演奏にふれるのがクラシック音楽の楽しみでもある.クラウスはいうまでもなく,グールドや歴史に名をきざむ大ピアニストたちをはじめ,愛聴するマリア・ジョアン・ピリスも内田もアファナシエフも,わたしを広大で深淵な音楽世界へ連れて行ってくれる偉大な音楽の水先案内人たちである.
アレルギーをぶっとばせ!
2015. 05. 22
今年のゴールデンウィークは地味にすごした.遠出をせず,近所のショッピングモールのなかにある飲食店で食事をし,別の日に近くの美術館へ絵画展を観に行った.でも,じつに感動的な体験をした.絵画に魂をゆさぶられたという高尚な話ではない.エビフライに心がふるえたのである.
6,7年まえのある日,とつじょ甲殻類アレルギーになって以来,エビを食べると拷問なみの苦痛に見舞われるため食べることができなくなった.ところが最近,すこしずつアレルギー源を体内に入れて抗体を作る治療法があると知った.そこで素人療法ながら少量なら食べるように体をならしてきた.効果は確実にあらわれた.去年は小エビを2,3尾程度なら食べられるようになり,今年にはいって大きめのブラックタイガーなら1尾くらいはいけるまでになった.もともとエビが大好物だったから感無量だった.おなじような経験のない方には理解できないかもしれない.
こうした経緯の延長に,くだんのエビフライが待っていた.食べることができた事実に感激するとともに,おいしさに感動した.からっと揚がったぷりぷりのエビの触感もさることながら,タルタルソースとの絶妙な味の調和はかの魯山人ですら舌鼓を打ったにちがいない.エビフライはこんなにもおいしいものなのだ.
すっかり忘れていた味覚の記憶.おおげさではなく,これは人生の再発見といっていいかもしれない(笑)
アザミのハチミツ
2015. 05. 21
3月のホワイトデーに,大阪の阪神百貨店でハチミツを買った.20種類以上はあったろうか,そのなかのいくつかを味見してみて,店員さん”おすすめ”のアザミのハチミツにした.蜂が花の蜜を集めてハチミツはできる.だから,花によって味がぜんぜんちがってくる.日本のハチミツといえば,レンゲが相場らしい.わたしはハチミツの甘さはしつこく感じられ,好きではない.ところがアザミの軽くさわやかで可憐な味わいに出会い,はじめてハチミツをおいしいと感じたのだった.さ〜て,つぎは何の花のハチミツに挑戦しようか!
ホームページ刷新
2015. 05. 20
新年度がはじまったことだし,数年ぶりに完全リニューアルをおこなった.今回のコンセプトは《スッキリ》だ.そのためにも文字の美しさにこだわり,Googleの提供するwebフォントを使わせてもらった.Googleさまには感謝申しあげます.また,卒業生のために作った電子版・卒業アルバムの画像も使わせてもらいました.彼女たちに,ここでお礼を申しあげます.
なんとかできあがったものの,いまどきtableタグを使う人もいないだろうけど,divのことはまったくわからないし勉強する意欲もない.ともかくも,サイト構築ですっかり疲れはててしまった.
橋本市長が政界引退を明言
2015. 05. 18
17日におこなわれた大阪都構想の住民投票で,反対票が過半数を超えた.橋下市長は大勢判明後の記者会見で,12月の任期満了をもって政界を引退する,とあらためて明言した.かれについて強引だとか乱暴だとか非難はあるけれど,住民の人気取りにはしる政治家ばかりが目につくようになったいまの日本にこそ,ビジョンを実現しようとする強い信念と実行力をもつかれのような政治家が必要なのではないか.好き嫌いをこえて,そう感じる.
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