09/12/07 yahoo検索で遊んでいたら、
私に関することのブログを見つけたんですが、
絵師でも音師でもないストーリーテラーである、という紹介のされ方を
していて、それって珍しいことなのかなあと思いました。
私は絵も描けないし、音楽も作れないので、
絵を描ける人、音楽を作れる人を尊敬しますし憧れます。
そのうち情報公開しますが、
音楽作っている友人に歌詞を送ったところ、
一晩で大体曲のイメージが湧いたなんて言っているので、
やはり才能がある人は違うんだなーとつくづく。
いつもお世話になっている宮部さんや、うかわさんも
すさまじいスピードで素敵絵を描いてくださるので、
こういうのは私がいくら練習したって無理ーって思います。
でも、絵を描けたり、音楽を作れたりするほうが
珍しいんじゃないかなあ。
ま、私は私ができることをすればいいんだし、
周りの人が「俺の力が必要なんだろー!」って
言ってくれてるわけだから、「そうなんです、必要なんですー!」って。
正確には、私が頼みこんだほうが先ですけどね。
ちなみに、冒頭のブログにはなぜか、
私について「精神科の研修医である思われる」と
書かれていたのですが、違います。
精神科に興味がないわけではないのですが、
もう私はほぼ100%小児科で決まりです。
ブログ紹介ついでに、以下はkagamiさんのブログの原文ままです。
とてもよく出来ているので引用します。引用元は閉鎖。
本当は反則なんですが、私に関することなので。
書かれている内容について何もコメントしないのも失礼なので。
とても理論的に書かれているので分かりやすく、
矛盾点も私には認められなかったです。
超越的な神についてはともかく、(これは私たちには議論できない)
ニーチェ的というのは、なるほど!と思いました。
それと、ミネルヴァではないです。
■フリーゲーム「紫陽花しようか!」 −メタ・フィクションの傑作!!
弁証法と否定神学−
阿呆瘋癲になるということは、実に楽しきことになる訳です。
(エラスムス「痴愚神礼讃」)
フリーゲーム「紫陽花しようか!」コンプリート。
とても面白いメタ・フィクションなフリーゲームでした。
プレイヤーがゲーム世界に干渉することを逆手にとって、
非常に上手く物語を構成している。
エラスムスの「痴愚神礼讃」のパロディ・オマージュとしてもとても
よく出来ていて、実に面白かったな(^^)
物語は痴愚の女神モリアと知識の女神ミネルヴァを攻略する
ギャルゲー……と見せかけて、
実は良く出来たメタ・フィクションな作品となっています。
本作の「痴愚」というのは、
勿論「痴愚神礼賛」から来ているわけですが、
これは古くはディデュランボス、近代になってからは、
ニーチェの「力の意志」やフロイトの「無意識」、
バタイユの「非・知」などとして大きく留意されるようになった、
盲目的な、合理(知性)では捉えられない、原初的な不合理な
混沌の諸力のことで、それを司る女神モリアを
非常に実験的に面白く描けているところも好感。
初期ケロQの作品のような実験精神を感じました。
この作品、作中でしばしば言及されるヘーゲルの弁証法というよりは、
弁証法を批判したニーチェ的な感じも受けました。
力の意志、カオス、諸力の流動たる動き。
それは、弁証法の正反を統合する意志を超える錯綜性(混沌)
としてあるんですね。
例えば、ニーチェの影響を大きく受けたフロイトの文章など分りやすい。
彼は、人間を「善人」「悪人」と分けるようなやり方に反対して
こう述べます。
人間の性格の、四方八方に向って動力学的に動いている錯綜性は、
我々の老朽化した道徳が好むような、簡単な「善」か「悪」かという
二者択一などで片付けられることは至極稀なのである。
(フロイト「夢判断」)
本作がニーチェ的というのは、本作の主題である「痴愚」というのは、
ヘーゲル的な弁証法からは逸脱している、
アンチテーゼとしてすら捉えられないもの(錯綜・混沌)
であるゆえです。
それは統合する枠(ジンテーゼ)自体からも逸脱するものとしてある。
テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの弁証法の外にある「なにか」
なんですね。
その辺で、混沌(カオス)を重視するシステムの作りとか、
とても良かった。
ただ、作内において、
痴愚を知識に対するアンチテーゼ的に捉えるところは、
ちょっと無理やり弁証法に
痴愚を当てはめちゃっているところもあるかな、と……。
またスペシャルエンドシナリオにおいては、
メタ・フィクショナルな展開となるのは、
ゲームという媒体であることを上手く使っており、
とても良いと思いました。確率の問題が出てくるのは、とても面白い。
ただ、神学と天文学的確率について言及されておられましたが、
ここも、確率の問題だと、それは常に世界の延長に
ならざるを得ないので、神の問題ではなく、世界の問題となりますね。
確率を操る大きな存在(作中のカオスルーラー)が
世界にいた(干渉していた)としても、
それは世界内存在であることには変わりがないんです。
それは、神としても、世界を創る工匠としての神、
デミウルゴスとしての神です。
この神は、私達のような存在と
(そして他の世界、例えばゲーム世界とも)
同じ位相にある存在なんですね。
例えば、創造する神(デミウルゴス)がいたとして、
その神がこの宇宙を創造したのだとしても、その神の
存在とは何か、一体どこから生まれたのか、というような、
我々の存在に対するものと同じ位相の疑問をさしはさめるわけですね。
神、超越的な神の問題というのは、
実は上記の神とは全く位相が違うんですね。
上記の神は、「存在している」という世界の枠の中にある。
私達はこの枠の中でしか論理的に考えられない、
その私達の思考(論理思考)の限界を超えたものとして、
位相を超えた超越的な神の概念(考えられない概念としての神)
があるんですね。
逆に、本作で描かれるような、
「……>造物主・上位干渉者>造物主・中位干渉者>
造物主・低位干渉者>…」というような感じで
ずっと続いていく弁証法的世界は、
全て、「存在している」という世界の枠の中にある、
平準的な在り方、どれも世界内存在としての在り方として
在るものなんですね。
この神(デミウルゴス)は、存在論的な位相で云えば、
同一的な位相(存在者としての位相)にある存在で、
超越的な神とは別物の、創造する存在者として
平準化された存在ですね。
先に挙げた、「痴愚」の捉えられなさというのは、
こういった平準化に対する批判性(弁証法に対する批判性)を
持っているところがあり、それは、弁証法的な位相には
回収できないものとしてあるんですね。
モリアのヒロインとしての造形が良かっただけに、
弁証法だけでなく、否定神学のファクターも、
痴愚の女神を描くなら欲しかったところはありますね……。
人間は到達を望むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。
もちろん、これはおそろしく滑稽なことには相違ないが。
要するに、人間とは喜劇的に出来ているもので、
この一切が、語呂合わせのナンセンスみたいなものなんだ。
しかし、それにしても、2×2=4とは鼻持ちならない代物である。
2×2=4などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、
諸君の行く手に立ちふさがって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。
2×2=4が素晴らしいものであることには、僕も異論がない。
しかし、褒めるついでに言っておけば、2×2=5だって、ときには、
なかなか愛すべきものではないのだろうか。
………
僕の確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして
拒まぬものである。苦悩こそ、
まさしく自意識の第1原因にほかならないのだ。
僕は最初の方で、自意識は、僕の考えでは、
人間にとって最大の不幸だ、
などと説いたが、しかし僕は、人間がそれを愛しており、
いかなる満足にもそれを見替えないだろうことを知っている。
(ドストエフスキー「地下室の手記」)
本作、とても意欲的で良い意味で実験的な面白い作品であることは
間違いなく、楽しめました。
哲学的なことをきちんと考えて製作してある、
お勧めできる、真摯な良い作品です。
特に哲学やメタ・フィクションの好きな方ならきっと楽しめるかと。
今後の作品にも、とても期待しております。
プロメテウスが人間達を形成した際、彼は見落とした、
人間の力と経験とが時間的に分離していることを。
一切の智慧とは何か老衰したものを含んでいるのだ。
(ニーチェ「生成の無垢」)
09/12/24
イヴですね。
この「ヴ」というほとんど非日本語について。
という切り口でもいいんですけれど、
それはヴァレンタインで語るとして。
あれ、バレンタインはバレンタインか。
メリークリスマスです。
病院の玄関に立派なツリーがありますけれど、
ああいうのって誰が飾り付けてくださってるんだろう。
きっと私が知らないような職種の人がいるんでしょうね。
医師、看護師、技師、事務以外にも、
ツリー飾り付け師みたいな職種の人が。
狭いようで、いろんな人が働いてるんでしょうね、病院って。
そういえば、私は職員食堂とか学生食堂とかで食べますけど、
患者さんが食べてる食事ってどれくらい残念なんだろう。
どの患者さんも大抵病院食に不満を言ってくるけど、
塩分が少ないからかなあ。
で、話は戻ってクリスマスなんですけれど、
今年はテブクロを頂きました。
紫陽花しようか!っぽい展開なんですけれど、
テブクロが破れてしまうほどの大きな手の彼氏って、
どれだけキングレスラーサイズなんだろうと思いました。
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