04/04/01

 暖かい春の陽気。

 戦争も平和も政府も議会も裁判も会議も、
 結婚も条約も同盟も法律も芸術も遊学も勤労も……
 息が切れるほどだが――そういうこと全てが、どうでもよくなった。

 時折、さらさらと流れる桜の花びらに、ただ……そう、ただ……。
 ただ、心穏やかに、時の流れを噛み締めていた。

 でも、本当のところ、そう思いたかっただけなんだ。
 この状況、どうして平穏でいられようか。

 なぜ、桜は花を咲かせるのか。
 虫を呼び寄せ、受粉し、種子を為し、子孫を残すためであろう。

 その目的と、このコンクリートで塗り固められた桜並木と。

 駄目だ、もう考えるのはやめよう。
 桜は美しい、それだけでいい。
 欺瞞で満ち溢れた世界に、俺は何を求めているのか。

 動物園に行ったら、パンダが可愛いと言ったり、
 水族館に行ったら、イルカが可愛いと言ったり……。
 背後に見え隠れする理不尽な矛盾には、目を覆う。
 そうやって生きていこうと、決めたばかりなんだ。

 そのとき、ふっと優しい風が頬を撫でた。

 「レ・ミゼラブル……」

 風の囁き。
 違う、それは人の、少女の声だった。
 少女はぺこりと頭を下げる。
 習慣とは面白いもので、
 俺は、彼女が誰なのか、ということを考える前に、頭を下げていた。

 彼女は微笑み、口を開く。

 「お花見してるの?」

 その声も笑顔も、桜の小妖精のように眩しかった。

 「あ……ああ、そう……花見、なんだ」

 胸が大きく高鳴った。
 少女が愛らしかったからか?
 いや、そもそも幼子というのは例に漏れず可愛いものだ。
 例に漏れず……いや、やはり例外はあるんだが。
 違う違う、そういうことじゃない。

 未知。
 真実。
 人間が生得的に求める何かを彼女は持っていた。

 今の俺が、覆い隠してしまったものを。
 今の俺、か。

 幼子が可愛いのは何故か。
 痴愚の女神が魅力を与えてあげているから。
 痴愚神がそうしなければ、誰が子育てなんてするのか。
 苦労でしかない子育てを、きちんと人間が果たすように、
 痴愚神がわざわざ幼児に魅力を与えているのだ。

 でも成長していくにつれ、
 その愛嬌は消え失せ、その溌剌さは衰え窶(やつ)れ、
 その活気は減少してしまう。

 くだらない人間界で愚かな経験を積み、
 無益な知恵をつけるたびに、
 人間は痴愚から遠ざかり、その魅力を失う。

 そしてやってくる、やりきれない老年期。
 死に瀕した絶望。不憫。

 だから、ここで痴愚女神はまたも救いの手を差し伸べる。
 墓場擦れ擦れの所にいる老人を、最初の幼年期に戻してくれる。
 死を感じないように。

 幼児と老人が似ているのはそういうことだ。
 頭髪の色の薄い点といい、
 歯のない口といい、ひょろひょろした体といい、
 乳が好きな点といい、もごもご言う点といい、片言で喋る点といい、
 物覚えが悪い点といい、不注意な点といい……ああ疲れた。

 とにかく両方ともそっくり。
 違うところといえば、一方の皺と年齢の数が多いことだろうか。

 「桜、綺麗だね?」

 少女の声に、ふと我に返る。

 「うわべ、だけはな」

 俺がそう答えた瞬間、彼女は桜の吹雪に消えた。

 思えば毎年、俺は彼女に会っていた。

 しかし、来年は会えない……何故だかそう確信できた。
 来年も、再来年も、その次の年も……。

 しかし、永遠の別れ、というわけでもない。

 あと五十年もすれば、また会えるだろう。

 「レ・ミゼラブル、か……」

 俺はもう一度桜の木を見上げた。
 桜は何も答えなかった。




 うーん、去年のエイプリル・フールの方が面白かったかも。

 毎年このシリーズを続けていきたいので、
 次は2005年の4月1日に期待ですね!!