司祭のメッセージ

2017年9月10日「キリストの体として」
 教会は、2000年前に生きたナザレのイエスを救い主(キリスト)と信じ、イエスが生き方を通して示された神の愛に倣い、生きようとする人々の集まりです。しかし、私たちは個々に異なる存在ですし弱さを持った人間ですから、時に反目し合い諍いが起こることもあります。そのような時にこそ、イエスの示された神の愛に目を向けるように、と福音書は語っているように思います。そして、私たちが抱えるエゴに目を向けるのではなく、信仰を共にする教会が抱えるべき想い・願いに目を向けるよう促します。それは、キリストの想い・願いでもあります。私たちの教会が一致して目指すものは何でしょうか。もちろん、個人の癒やしや慰めを否定することではありません。主の平和を目指すのであれば、個々の癒やし・慰めは必ず含まれます。  聖愛教会創立70年の節目を迎えたこの年、私たちが目指すものは何であるのか、目標に到達するために必要な、私たちが行い得る具体的な働きは何であるのかを、祈り模索する時期が来ているのではないでしょうか。 (司祭ヨハネ古澤)


2017年9月3日 「キリストを頭として」
 イエスはペトロに対して「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いました。しかし、神の想いを最優先して受難の道を進まれたイエスは、私たち人間のために死に復活させられたのでした。神のことを思って生きることは人間のためになる、ということが起こっているのです。私たちの罪を自分の十字架として担ったキリスト。そこにはひたすら他者のために生きるというイエスの姿勢が表れていました。イエスのいう「人間のことを思う」生き方というのは、自分のことだけを思う生き方。「神のことを思う」生き方というのは、他者のために生きることを示しているのではないでしょうか。そこにはひたすら命を活かす道が示されています。  私たちは一人一人が個々の存在ですが、同時にキリストの体を形作るものでもあります。「キリストに結ばれて一つの体を形作っている」存在です。私たちの体の頭はキリストです。だからこそ、私たちはキリストの思いに従って生きようと努めます。私たちひとり一人は考えも得意なことも好みも違います。しかし、キリストの思いに従おうということに置いては一致しています。神の言葉が何であるのかを祈り求めましょう。 イエスの受難予告を聞いたペトロが狼狽したように、それは時に受け入れがたいものかもしれません。しかし、私たちを活かそうとしてくださる神の思いなのです。他者の命を活かすための道のりです。私たちを活かしてくださる、キリストの愛の道のりです。  (司祭ヨハネ古澤)


2017年8月27日 「いつまでも、共に」
私はストレートにイエスのことを「あなたは生ける神の子です」と言えるペトロのすなおさと言いますか、純粋さを心底尊敬します。ペトロのこの言葉は、何か計算があったのでもなく、ましてや褒めてもらおうと媚びを売ったのでは無く、今までイエスと旅をして目にしたこと、耳で聞いたことをひっくるめた結果、心の底からわき出た言葉でしょう。実際、ペトロの告白に対してイエスはこのように言います。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ったこの言葉は、天の父が言わせてくれたことなのだよ、とイエスは言います。  イエスがペトロを教会の礎としたのも、天の国の鍵をお渡しになったのも、この素直な心、それこそ子どものような心をペトロが持っていたからでしょう。もちろん私たちはペトロが強い人間でないことを知っています。イエスが捕らえられたときに逃げてしまったことも、イエスの裁判中にイエスのことを三度「知らない」と言ったことも知っています。  そのような弱さと素直な心を併せ持つペトロを、イエスは教会の岩として選びました。それはペトロが神の導きをしっかりと受け止めて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したからでした。私たちの教会は、教会とは神に招かれた者の集まりですから、言い換えれば私たちひとり一人は、このようなペトロに繋がっています。弱さを持つ者であり、イエスを救い主と告白する者です。  (司祭ヨハネ古澤)


2017年8月20日 「あなたを救うキリスト」
 「自分みたいなクリスチャンを神さまは救ってくださるだろうか。天国へ招いてくださるだろうか」と信徒さんから質問を受けることがあります。そのような時はいつも、イエスはいつも「罪人」と見なされていた人々のところへ最初に入っていったことをお伝えすると共に、親鸞の「善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉を思い出します。
 有名な悪人正機と言われる言葉です。人間は皆、何かしら罪を犯している。自分は正しいと思い、己の罪に気づいていない「善人」を仏が救うのであれば、自分は罪人であることを自覚している「悪人」を仏が救わないはずがない。そのような言葉だそうです。「仏」を「神」に置き換えると、キリストを表す言葉になりますね。
 福音書に登場した女性も、自分が罪人(神に背を向ける存在)であることを自覚していたのではないかと思うのです。最初は無自覚だったかもしれませんが、自分の娘が一大事になったとき、自分たちの力ではどうしようもなくなったとき、神の存在を思い出すと同時に神に背を向けていた自分に気付いたのではないか、と言うと想像を膨らませ過ぎでしょうか。
 自分は罪人であるという認識は、イエスなら何とかしてくれる、神は異邦人である自分をも愛してくださるという確信と同時に生まれます。そして、その思いに応えてくださるキリストが私たちの目の前におられます。  (司祭ヨハネ古澤)


2017年8月13日 「信じる?信じる!」
 ガリラヤ湖は山に囲まれた湖でして、かなり強い風が山から吹き下ろしますので、琵琶湖よりも大きな波が起こるそうです。弟子たちを乗せた舟はおそらく小さなものだったでしょうから、かなり波に翻弄されたのではないでしょうか。自分たちはどうなってしまうのだろう、といった恐怖に心が支配されてしまっていたかもしれません。
 そのような弟子たちを見て、イエスは自ら弟子たちの舟へと進まれました。この際そこが水の上だったかどうかは些細な事柄でしかありません。イエスが誰に頼まれたでもなくご自身の意志で、弟子たちの乗った舟へと歩まれたのです。そのお姿をみて、ペトロが言います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。
 しかし、イエスのもとへ進むその歩みには信じる心が必要でした。そう、それは水の上を歩むことなのです。もちろんイエスが共にいてくださるから水の上を歩むことができます。ただ、イエスが私たちのところへ来て下さった、そのイエスの心に応える私たちの心が必要です。イエスだけの片思いではだめなのです。イエスが共にいるから大丈夫。その心があって初めて、水の上を歩みイエスのもとへ辿り着ける。そのことをペトロは私たちに教えてくれました。言い方を変えれば、イエスは常に私たちのもとへと歩み寄ってくださっている。そして私たちは、イエスのお力によって、イエスのもとへと進むことができる。そのようなキリストを信じますか?共に信じていきましょう!  (司祭ヨハネ古澤)


2017年8月6日 「立ち止まって、目を上げて」
 山の上でペテロたちが聞いた言葉と同じような言葉を、イエスの洗礼の際にも神は語っておられました。洗礼時はイエスにだけ聞こえる言葉でしたが、山の上では周りにいた弟子たちにも、いえ、弟子たちにこそ主は語りかけました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。なぜでしょうか。おそらく、神は弟子たちに再度目を上げてイエスをよく見て欲しかったのではないかと思うのです。イエスが山に登る直前に目を向けると、このような出来事があります。一つはペトロがイエスのことを「神からのメシアです」と告白する。もう一つはイエスが初めてご自分の死と復活を予告します。弟子たちにすればとても受け止められない予告だったでしょう。
 そのような弟子たちを思いやり、神は雲の中から語りかけます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。ペトロたちにこの言葉は届かなかったかもしれません。しかし、正にこれは神から弟子たちへの思いやりの言葉です。「ああ、自分は神に見つめられていたのだ」と思い返しながらペトロは手紙を書いたことでしょう。
 そして、山上での言葉は福音書を通して私たちに語りかけます。「イエスは神の子だ。心配するな。イエスの言葉は私の思い・願いだ。イエスの言葉に耳を傾けなさい」と。聖霊降臨後の期節が3分の1過ぎました。私たちは少し歩みを止めて思い返しましょう。イエスが何を語っておられたのか。何を私たちに示されたのか。主は私たちを常に見つめておられます。私たちも再度キリストに目を向けましょう。  (司祭ヨハネ古澤)


2017年7月30日 「生命の詰まった種として」
 ここ数週間、福音書日課でイエスは神の国について語ってきましたが、今日で一区切りです。今日イエスは「天の国はからし種に似ている」と言います。からし種はとても小さな種です。金魚の餌一粒の半分くらいの大きさです。米粒の4分の1位の大きさかもしれません。からし種は成長すれば大きいもので4メートルくらいになるそうです。その小さな種からは想像できないような大きさです。でも今日のたとえ話で最も驚くべきことは、畑に蒔かれたからし(・・・)種が「たった一粒」だったということです。日本語では表現できませんが、原文では蒔かれた種は一粒を表す単数形になっています。たった一粒のからし種が畑に蒔かれ、その種は途中で枯れることなく大きく成長し、そこに空から鳥がやってきて巣を作る。そのような木に成長すると言うのです。
 神の国はこのようなものなのだ、とイエスは語ります。私たちの内に蒔かれた福音の種。それはとても小さな種かもしれませんが、それはやがて神の国へと成長していく。鳥が巣を構えて憩うように、私たちのうちに蒔かれた福音の種は、やがて私たちをそして私たちが出会う人々を休ませる、ほっとさせる、そのようなものになると。もっといえば、人々を生かすものへと成長させられるのかもしれません。それが福音の種だよ、とイエスは言います。だから神に信頼して、それぞれの人生を歩みましょうよと。私たちは風に吹かれて旅をする存在です。聖霊の風です。それは主の導きに他なりません。  (司祭ヨハネ古澤)


2017年7月23日 「よい麦”と”わるい麦」
 前半の「良い麦と毒麦のたとえ」話をもし一人の人間に当てはめるとすれば、一つの麦がそれぞれ一人の人間を示すのではなく、その畑にある全ての麦が一人の人間を指すのではないでしょうか。良い麦もあり、悪い麦もある。それが一人の人間です。私たちひとり一人が、良い麦も悪い麦も生えている畑そのものです。
 一方で、私たちはそれぞれの方法で神の国が完成されるよう、イエスと共に土を私たちの住む社会を耕していきます。それが私たちの人生そのものです。この三週間、私たちはイエスから神の国に関する話を聴きました。イエスに招かれ、「共に軛を負いましょう」と招待され、種蒔く人のたとえを聴き、良い麦と毒麦のたとえを聴き、神の国は必ず訪れるとの約束を受けました。 私たち、良い麦と毒麦を併せ持つ存在です。毒麦とは、大事な事柄(人に寄り添う、誰かに頼る、神に目を向ける)から目をそらしてしまうモノなのかもしれません。しかし、そんな毒麦を抱えながら時に葛藤しながら生きる。だからこそ、人間味というものがにじみ出て人は暖かさを持つのではないでしょうか。 (司祭ヨハネ古澤)


2017年7月16日 「かならず実る、神の国」@聖ガブリエル教会 
 神の国が何であるか・どのようなものであるかを、今週から三週に渡ってイエスが語ってくださいます。神の国は決して、いわゆる天国だけを指すのではありません。私たちが生活するこの世が神の支配のもとに置かれる状態、一枚の布に綻びが全く無い状態、それが神の国です。イエスを救い主と信じるクリスチャンは、二千年間も神の国の到来を待ち続けました。そしてクリスチャンは神の国に向けての働きも行ってきました。それは一言で言えば、全ての命が大切にされるための働きでした。しかし一方で、命を蔑ろにすることもありました。そして社会が命を軽視する風潮が高まってくると、私たちは神の国の到来に対して懐疑的にまた諦めの念すら抱いてしまいます。
 しかし、イエスは言います。「良い土地に落ち、実を結んで」と。良くない土地に落ちた種は確かにありましたが、全てがそうではありません。それは全体で見ればほんの一部分だったかもしれません。何れにしても、種は良い土地に落ちて実を結びます。そして神の支配による国が到来します。イエスはこのことを譬えを用いて約束されました。 私たちにもみ言葉の種は蒔かれています。だからこそ、それぞれの方法で自ずと神の愛を実践しようとします。それは多くの場合、世を一変させるものではありません。大海の一滴ほどにしか映らないかもしれません。しかしその一滴もまた神の愛です。私たちがみ言葉に導かれての働きは、どれもがキリストの愛に裏打ちされた愛の業です。 (司祭ヨハネ古澤)


2017年7月9日 「キリストからの招待状」
 イエスが言います、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。これは聖書を通して私たちに向けられている言葉、招きの言葉です。理由をイエスは問うてはいません。とにかく「疲れているのなら、背負っているものが重いのなら、私のところへおいでよ」とイエスは言います。「休ませてあげるよ」と。でも、ただ休ませてくださるだけではありません。次に立ち上がり再び歩み始めるときにも、イエスは呼びかけます。「私の軛を負いなさい」「私から学びなさい」と。「そうすれば安らぎを得られますよ」と。牛さんたちは軛を負いますが、パレスチナでは主に二頭立てだそうです。つまり、イエスからのお誘いです。「私と一緒に軛を負いませんか」と。軛を負って歩くと畑が耕されます。イエスと一緒に軛を負い人生を歩むことで、この地を耕すよう私たちを促します。神の国が完成する土壌となるように。私たちの人生そのものが、神の国を招く働きの一部分とされます。こんなに嬉しい招きはありません。
 私たちが生活するこの世が神の支配のもとに置かれる状態、一枚の布に綻びが全く無い状態、それが神の国です。だから、あなた自身に綻びができないように、また綻びができても・困難が起こってもそれを進んでいけるように、イエスは招いてくださいます。「休みなさいよ」と「一緒に軛を負いましょうよ」と。それは同時に、この地を・社会を神の国に向けて耕すことでもあるのです。私たちはキリストから招待状を頂いています。お応えしない手はありません!  (司祭ヨハネ古澤)


2017年7月2日 「共に担う十字架」
 私たちは全能ではなく限界を持つ存在です。自身の限界に突き当たった時、自分は弱い存在であることを感じることがあります。自分が弱い存在であることを知るとき、私たち人間が取ることのできる行動は二つです。誰かに頼って生きるか、頼ることなく立ちつくすか。最近は社会が頼ることを許さないため、頼って生きる道を閉ざされた人が命を落とす事件も起こっています。
 弟子たちを宣教に送り出す際、イエスは弟子たちに頼る道だけを用意しました。それは、その身一つで宣教に送り出すことでした。お金も、履物や着替えすら持つことを許さず、文字通り弱い存在として弟子たちを送り出しました。彼らが持つことを許されたのは、癒やしの権能と神の福音だけでした。食事や寝る場所については「行った先で用意してもらいなさい」とイエスは告げました。「働く者が食事を与えられるのは当たり前だ」と。
 今日イエスは視点を変えて言います。一見何も持たない物乞い同然のイエスの弟子たち。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と。私たちの生きている社会は、「愛することへの恐れ/愛されることへの恐れ」を持っているように感じます。一杯の水を差し出すことへの恐れ、そしてそれを受け取ることへの恐れです。しかし、イエスは言います、「働くものが食べ物を受けるのは当然である」そして、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人には、必ずその報いを受ける」と。大いに愛し、そして愛されましょう。それは共に十字架を担うことでもあります。(司祭ヨハネ古澤)