巻頭言
いつも いつまでも「お初」で
工 藤 直 子

 こういう詩を書いたことがあります。「朝」という題です。

  新聞のように折り畳まれて朝がきた
  あくびして朝をひろげ
  今日なにが起きるか みる

  友よ
  あなたの朝は あたらしいか

 二十代の中頃だったでしょうか。仕事にも慣れ、昨日の続きで今日があり、手慣れた感じで日々が流れだした頃の詩です。
 詩は「友よ」と呼びかけの形を取っていますが、気持ちは「直子よ」と自戒の意味をこめて書きました。

 子どもの頃、「新年」というのは何もかもがマッサラのお初というふうに見えて、わくわくしました。目が覚めて出会う服、机、窓の外の景色……歯みがきも、今年はじめてのお初の仕事だから、水道の蛇口にも歯ブラシにもコップにも、ドキドキしながら「あけましておめでとう」と言いました。ほとばしる水を手で受けながら、なんと新鮮な感じを持ったことか。
 あんまりなにもかもが「お初」に見えて、あらゆるものに「はじめまして」とアイサツしたくなるものだから、興奮が続いて、ひとりで勝手にクタクタになっておりました。

 「いつもと違う」目で、まわりを見ると、ほんとうに世界の景色が変わります。あの子どもの頃の、新年の「はじめまして・ゴッコ」の味が忘れられず、いつもお初状態でいたいものだ、と思うようになりました。
 つまり「初めて会うように、人や事柄と出会い続ける」そんな人生を送りたいものだ、と。
 そういう気分でいるときは、ふだん何でもなく見過ごしていることがビックリするほど鮮やかに見えるものです。驚いて、使い慣れたコーヒーカップを、まじまじと見つめたり、道ばたにしゃがんで、草のそよぎに「ほほう!」と見とれたりしてしまいます。

 詩や童話を書きたくなるとき、というのは、たいてい気持ちが「お初」になっているときのようです。だから「直子よ お前の朝は あたらしいか」と、何度も自分に問いかけてきたのだと思います。
 そして今、また新年−お初のはじまりです。
 あらためて日々お初、という気分に、たっぷり浸ろうと思っているところです。
(詩人)