巻頭言
日記の表紙 ー教生先生との六十年後の再会ー
岸  優 子

 吉永幸司先生と最初にお会いしたのは、今からちょうど六十年前。私が、滋賀大学学芸学部附属小学校二年生の時でした。例年のように、六月になると、私のクラスに、五人くらいの教生先生(教育実習生)が来られました。吉永先生はそのお一人でした。小柄な先生でしたが、教育へのオーラがまぶしいくらいに輝いておられました。

 附属小学校の子どもたちが教生先生を見る眼には、けっこう厳しいものがありました。なにしろ、毎年、六月と九月になると、各学年の各クラスに、大挙して押しかけていらっしゃるわけですから、自然とそうなります。休み時間に子どもたちと一緒に遊んで下さった先生、写真をいっぱい撮って下さった先生、実習の終わりに一人一人にお手紙を書いて下さった先生、部活の面倒を熱心にみて下さった先生、二年にわたって来られた先生などなど、いろんなタイプの教生先生がいらっしゃいました。しかし、吉永先生は、特別でした。お名前の読み方が、一般的な「こうじ」ではなく、「こうし」という珍しい読み方であることも、その一因です。というのも、当時、私は『はなのすきなうし』(マンロー・リーフ作)という本が大好きで、先生のお名前が、そこに登場する「フェルジナンド」という名の子牛(こうし)を連想させたからです。もちろん、それだけではありません。日々教材研究に取り組まれ、授業に臨むにあたって用意周到に準備を重ねておられるお姿は常に情熱的で、その教育者としての情熱は、子どもながら、全身で受け止めるべきものとして記憶に刻まれました。頬を赤らめながらお話になるときの表情や息づかいまで、はっきりと憶えています。

 吉永先生と二度目にお会いしたのは、今から六年ほど前、京都女子大学を退職された先生の講演会の時でした。講演会の終了後に面談する機会を得たのですが、目立たない子であった私のことなど憶えておられるはずはありません。そこで、後日、お手紙をしたため、私の心の最も深いところで、教育者としてのあるべき姿を教えて下さった先生への思いをお伝えするとともに、先生の強烈なインパクトを証明する何かが実家にあるに違いないので、その証拠を捜してみますと約束したのです。

 しかし、その約束を果たすのは、簡単なことではありませんでした。その後すぐ、私は、華頂短期大学で、幼稚園教諭を目指す若い学生たちを教えることになり、また、義母の介護も加わったからです。その間、先生からは、数々のご著書や「さざなみ国語教室」を何度もお送りいただき、気になりながらお約束を果たすことができませんでした。

 ようやく、事態が動き出したのは、昨年のこと。退職して時間を自由に遣うことができるようになって、何度か、実家の捜索を行いました。というのも、実家には、母が子どものために、小学校六年間の思い出を、一年ずつ詰め込んだ「宝箱」が大切に保存されていたはずだからです。しかし、数日前、宝箱は、思いがけないところで見つかりました。実家ではなく、自宅の二階の本棚にあったのです。結婚後、実家の母が、孫を世話するために来てくれていた時に、大事な物だから、と運び込んでおいてくれたようです。早速、二年生の宝箱を開けてみたところ、中には、絵画作品、テストの答案、創作お話の原稿、クラスの名簿、担任の先生からの年賀状、お友達からの手紙などに混じって、『白い船』(一九六二年刊)という学校文集と、新学期から学年末までの毎月分の日記を綴じた冊子十数冊(夏休み、冬休みを含む)がでてきました。その日記のうちの七月の分を綴じた表紙に、なんと、「なまえ(よしながこうし先生)」と読める拙い字とともに、先生のお姿が描かれているではありませんか。

 七月といえば、教生先生とのお別れの月です。担任から、「教生先生との思い出」というような課題が出たのだと思います。半袖のポロシャツを着て、フサフサとした髪の毛をされていますが、向かって左側の耳しか描かれていせん。右側の耳は消しゴムで消した痕跡があります。これには理由があります。当時、教生先生は、いつも、教室の黒板横に設えられた専用の座席に座っておられたのですが、吉永先生は、名字が「よ」で始まりますから、その座席の一番右端に座っておられたので、私には、先生の左側の耳しか見えなかったからなのです。しかも、指の数は、左右とも4本ずつ。机の上に、お行儀良く、親指を中に入れて、手をついておられたからでしょう。眉毛がきりっとしているのは、おそらく、その当時の先生の特徴だと思います。私は、当時、六歳六か月でしたので、描くべき対象について、知っていることではなく、見えていることを観察して描いていることに、ちょっとした驚きを感じています。いずれにせよ、日記の表紙に、他の教生先生ではなく、吉永先生だけが描かれているのは、先生こそが、教生先生を代表する「教師の鑑」のように受け止められたからにちがいありません。

 長い人生からすれば、ほんの一瞬に過ぎない「出会い」ではあっても、人の生き方に影響を与える「出会い」というものがあります。吉永先生との「出会い」は、その後、教育学を専門として、教員養成にもかかわってきた私の四十年間の歩みにとって、まさにそのようなかけがえのない一瞬であり、原点でした。私の人生の早い時期に、先生に出会わせて頂いたことに感謝するとともに、今も精力的に進化を続けておられる先生のご健康を祈念するばかりです。
(華頂短期大学幼児教育学科元教授)