教えることの難しさ
川 端 由 起

 今、4年生の最後の単元である「初雪のふる日」の学習に入った。物語は、「プラタナスの木」以来 であり、プラタナスに通じる不思議な出来事が起こる題材でもある。著者の安房直子さんの作品を全て小学生の時に読破したほど、大好きな作家であった。

 読む単元では、「ウナギのなぞを追って」以来であったので、第1次に、児童に「これは説明文かな、物語文かな。」という問いかけをした。全児童が「物語文」と答えた。次に、「では、説明文と物語文の違いを教えて。」と問いかけた。児童は下を向き、難しそうな顔をしたので、ノートに違いを書くように指示し、時間をおいた。
 そして、児童を指名していく。まず物語の特徴を聞く。「はじめ・中・終わりがある」「人がいる」???次に、説明文の特徴を聞いた。「はじめ・中・終わりがある」「段落がある」机間巡視をしても、ほとんどの児童がこのように書いているのに、驚いた。
 物語文は、いわゆる小説であり、それは、自己の内面をみつめ、人間の生き方などについて考えるきっかけをくれるものだと私自身考える。それと比べて、説明文は筆者の主張を読み解くものであり、問題提起、具体的な事例、結論を通じて筆者の伝えたいことをわかりやすく知ることができる。
 説明文の特徴として、ある児童が「説明文には問いがある」と一人答えてくれたが、では物語には問いはないのだろうか?

 児童が私の質問にこのような答え方しかできないのは、ひとえに私の責任である。説明文の実践は5月に報告させていただくので、省略させていただく。物語文において私は、まず児童の初発の感想を聞き、児童の感想や疑問を何回かに分けて、解消する形をとってきた。そして、疑問を解消すると共に教材毎に押さえるべき指導事項を踏まえながら学習をした。
 こうした指導方法を取ることにより、いわゆる「押さえるべき所」は押さえてきたのである。しかし、児童は、物語から何かを学びとったのであろうか? 物語から生き方に考えるきっかけを掴み取れたのであろうか? 掴み取れていないから、物語文と説明文の特徴を聞かれても、皆「はじめ・中・終わり」が両方にある見当違いな解しか出てこなかったのではないだろうか。

 私は、一つの作品を指導法に拘り、物語に使われている技法を児童と一緒に探し出すのに重点を置きすぎていたのではないか? もっと物語の根底にある、深いものを児童と一緒に探し出す。児童が物語を深く知ることにより、一つの生き方を知る、そんな授業をしていかなければならないと自分を戒め、深く心に刻んだ。
(草津市立志津小)