36年ぶりの「わらぐつのなかの神様」
伊 庭 郁 夫

 36年前の「わらぐつのなかの神様」の授業を未だに覚えている。転勤した小学校で「同授研」の授業をすることになり、教材研究を学びに学外でも教えをいただいた。おかげで、子どもたちが意欲的に学習に取り組み手ごたえを感じた。ある日、母に連れられて子どもが教室に姿を現わした。
「どうしても勉強したいと言いますので、熱があるのですが連れてきました。」
 その光景は、永い年月が経っても忘れられない。

   さて、ご縁があって高島市内の小学校で「人授研」(人権教育における授業と教材に関する研究集会)に関わる機会を得た。担任は、5年生。どの単元を授業するかから始まった。内容も「人権教育」にふさわしく、また私がかつて授業したこともあることから「わらぐつのなかの神様」を扱うことになった。  急いで、当時の資料を探し当てた。
 担任していた当時「大造じいさんとガン」「やまなし」等有名教材を扱った時には、単元ごとにファイルを作り、資料を残しておいたのが今、役に立っている。

 私が、かつて教わったように教材研究から始める。30年以上の時を経ても教科書に載っていること自体、価値のある教材と言える。おみつさんと大工さんの出会いと結末の「みつ」と「おじいさん」の結婚とが額縁構造になっていて、読者も驚きを共有できる。最初のページを丁寧に読み、教材研究の楽しさを実感する。おのずと、授業のポイントも見えてくる。

 ここで、特に授業者の構えで感心したことがあった。ある事前研究の場で、
「全文をパソコンで打ってみました。」
というのである。音読するだけでもかなりの時間を必要とする教材を一字一句拾いあげたのである。そのこと自体が、価値ある教材研究である。早速、読み合わせをして打ち間違いがないかチェックする。細かな訂正は見られたが、ほぼ正確に打ち込んでいる。
「このパソコンで打ったものを、子どもたちのノートにしよう。」
と提案した。
 書き込みがしやすいように行間を広くしたり、ノートの下の部分を空白にし、気づいたことを書き込んだりできるように加工できる。また、最初から形式段落に通し番号を打っておくことで、授業の中でも「何番の段落のこの言葉から」というように全員が共通理解しやすい。

 授業も随所に工夫が見られた。
1 学習の足跡を示す掲示が柱の陰に隠れないよう、どの児童からもよく見える場所にあった。
2 わらぐつの挿絵に児童の描いたものを活用した。不格好であるが隙間なく編み込まれたわらぐつのイメージをどの子どもも読み取っている。しかも左右の大きさが違うのである。このように子どもの作品を生かすことも人権教育で大切にしたい点である。
3 板書が大変丁寧になされ、きちんと定規を使って、めあて等示された。私から「指導案に板書計画を入れては」と提案しておいた。きちんと黒板に板書の計画を書き込み、写真に撮って指導案に示されていた。
4 教師の個別指導は、児童の目線までしゃがみこみ、威圧感を与えることなく行われていた。また、じっくり待って考えさせる場面もあった。
5 全員参加、全員集中がなされていた。発言する児童の目をしっかり見て話を聞く姿が見られた。一人ひとりを大切にする人権教育を具現化した授業である。どの児童も読み書きしながら考えていた。挙手の仕方も指先までしっかり伸ばし自信をもって考えを述べることができていた。ペア学習も効果的に組まれていた。もちろん、どの段落のどの箇所から考えたのかの根拠も示されていた。
6 物語教材を読む上で大切な「対比する」「つなぐ」がなされていた。「他のお客と大工さんの見方考え方の対比」「おみつさんと大工さんの目のつけどころの共通点」がいくつも子どもたちの発言から見えてきた。

 研究会では、合わせて十か所以上の授業の見所を述べた。ある参観の先生が、
「伊庭先生のような授業の良いところを見つけるのも人権教育ですね。」
と発言されたのが心に残っている。
 吉永先生の仰る通りご恩返しはできないので「ご恩送り」をしていくという取り組みが少しできたと実感した。

 余談である。授業者はかつて私がスポーツ少年団で指導した先生である。小学生であった少女が今、教壇で堂々と公開授業を展開しているのが、何ものにもかえがたい喜びである。
(社会福祉法人虹の会)