授業の名言から考える(1)
森  邦 博

「教師は授業で勝負する」
 授業研究会では、よく「教師は授業で勝負する」と教えられた。言うまでもなく「島小教育」(群馬県)と言われる斎藤喜博実践を表す言葉である。「『斎藤喜博』追いて吾らの熱かりきちょうちん学校と揶揄されにつつ」((兵庫県)青田綾子作 朝日歌壇1997年11月22日入選歌 選者近藤芳美)」と歌われている通り、全国に斎藤実践を追い求める教師を生むほどに影響力が大きかったという。
 特に私にとって授業づくりを考える上で大切にしたいと考えている「名言」は、自分の「授業の再現」・「授業を描写」できることを求めたということである。授業の再現ができない、授業の描写力が弱いということは、子ども一人ひとりを確かにつかまえていない、授業を的確につかまえていないということでもあるという教えである。
 授業の再現力・描写力をつけることが、授業で子どもを大きく育てる教師力の向上になるとの教えだと受け止め、自分の授業ので再現を試みた。なんと難しいことか、自分の力不足を痛感するばかりだったことを告白せざるを得ない。
 公開・研究授業の助言を求められる立場で教室に向かう機会をいただくことがある今の私は、拙いなりにも懸命に授業の再現に努めるようにしている。そのプロセスで気づいたこと・発見したこと・問題点・改善の方策が語れるように努めたいと考えている。

「子どもはつまずきの天才である」
 コウノトリの里兵庫県豊岡市(旧出石郡但東村)の東井義雄記念館を訪れた。そこで次の文章が心に突き刺さった。
◆子供はつまずきの天才である。思いもよらぬつまずきを平気でやってのける。しかし,考えてみると,子供はわけもなくつまずいているのではないようである。子供のつまずきの底に,子供をつまずかせる何かがあるようである。
◆「つまずき」分析をすると指導のための宝物が見えてくる。
◆学期末を迎えるたびに、私は長嘆息する。手に持つペンは遅々として進まない。自分を表現する力が出来たぞーと賞め続けてきた遅進児T君。あんなにがんばっていたのに、通知表に記入しなければならないのは、やっぱり『2』だ。遂には目を瞑って『2』と書き込む。そしてまた、ため息をつく(略)。…終業式後、通知表を渡し終えた私は、いつだって頬のこわばるのを感じる。
 東井実践では、「子供はある法則に基づいてつまずいている」と見て考察を加え授業を改善していくという。
 斎藤喜博氏の授業論での「『○○ちゃん式まちがい』を生かす」という主張に相通ずるものがある。

 たしかにつまずきの理由や原因を観察していくと、傾向や予測・推測ができるようになってきたりするようになる。そうするとつまずきを否定するのではなく。「味わう」というか指導にゆとりや幅ができてくるから不思議である。授業改善の視点が見つかったりもするのだった。また、「評定と評価」の相違を考えるようにもなった。そして、授業に生きる評価は、何より学習者の学習意欲を高め、自分の学びを納得できる評価が大切であるとの考えに納得ができるようになった。授業中の評価活動も、子どもの学習に生きるための評価でありたいと考えるようにもなった。授業において、子どものつまずきを生かすことによって、子どもの学習を改善する、つまり「形成的評価」の大切さの気づきである。<つづく>
(京都女子大非常勤講師)