巻頭言
大切にしてしまっていた思い
杉 澤 周 一

 定年退職にあたり,ここに教師としての歩みを振り返る機会をいただいた。経験を重ねるごとに,学校・教室,授業とは子どもにとってどんなものか,その認識に伴い実践するうちに,自ずと大切にしてしまっていたことがある。以下,その概略。

 学校は,ひとり立ちできる子どもを育てている。つまり自立に向けた指導・評価・支援をしている。・一人で○○できる学力・自力で学ぶ力・複数の人と学び合う力・自己管理能力,自己実現能力・複数の人との関わり合う力さらに折り合いをつけ生きる力 … 教師は,自転車の補助輪のように,一人立ちを支え,やがて離すことを念頭に仕事をしたい。
 また,子どもにとって学校に通うことの意義を考えてきた。例えば,子どもが,家で一人で物語を読んで得ることと教室でみんなと先生とで読んで得ることは,量的にも質的にも当然,違いがある。教室は複数の子どもがいる。同じ,似た,違った思い・考えがあり,気づき考えを広め深め学び合い育ち合うところである。さらに,プロの教師がいて日本全国のスタンダードによる教科書をはじめとした教材とカリキュラムがあり,子どもはその恩恵を受けるところが学校である。
 自立と学校で学び合う意義から,授業は個にはじまり集団で学び合い個に戻らねばならないと思ってきた。個々の関心・意欲を喚起しつつ個の学びがスタートになる思い・考え,疑問,課題を明確にさせ,それをもとに集団で学び合いその終末には個にもどり,学びの変容を自覚させる。あたりまえのようだが,これを意図的に確かなものとして実践し続けるのが教師の仕事だと思った。  これらの認識を,いつのまにか実践の土台として大切にしていた。

 国語科は,個のはじまりと集団の学び合い,終末の学びの変容の自覚を,個々のノートと黒板の右から左へ書かれた文字で自覚できる。そして,もう一度,本文を読む。一斉ではなく個々に微音読で。ノートには,45分間の右から左だけではなく,一単元,一学期,一年間の右から左の学びの変容その自覚が積み重なる。宝物である。
 学びの変容,その自覚を大切にしてしまうようになり,考えさせることと書くことが授業で欠かせないものとなっていったようだ。
 見て考える,聞いて考える,読んで考える,やってみて考える,書いて考える。考えて判断し書いて,また見て聞いて読んでやってみて…。思考・判断・表現は言葉を通している。特に,考えることと書くことは,課題や疑問などに立ち止まり,思考力・判断力・表現力が育まれる大切な学習活動である。国語科は,その豊かな舞台である。その舞台で学んだ基礎基本は,各教科等や特別活動の言語活動と絡みながら,思考・判断表現活動に活きて実生活に生きる力を育むことにつながっていく。これを踏まえて考える,書く活動を意図的に設定するのは,教師として大切な仕事になっていった。 考えたくなる深めたくなる。書いておきたくなる,書きたくなる,書くことを厭わない思いを育てる必要があると考えるようになった。

 今回は,これらの具体を書き伝える紙面がない。どうか考えさせてやっていただきたい。書かせてやっていただきたい。そうして学びの変容を引き出してやっていただきたい。言葉を通して,学ぶ力を生きる力がよりよく育まれますようにと祈るばかりである。
 子どもを弾ませてやりたい一心で授業に臨んできた。だから自ずと大切にしてしまっていたことがあったのだと思われる。

 子どもが弾んで学ぶ姿を追い求めた三十数年。子どもの反応を把握し往復の対話をしながら授業を進めること。前のめりになって話し合う,黙ってひたすら書く,夢中になって読み浸る,「、」「。」まで一気に書けるようにする視写,読めるようにする音読で鍛えるなども大切にしてしまっていた。
 私一人では学べなかった。多くの学び合い・ひびきあいに深謝。
(東近江市立八日市西小学校)