巻頭言
漏 れ ゆ く も の
武 西 良 和

 私は、ここ35年ほど詩を書き続けています。学校現場を離れても、子どものことが時々、鮮明に思い出されることがあります。
 教員時代のある時、「音楽の子ども」という次のような詩を書きました。

授業を見ながら
子どもの言葉を記録に
残す

音楽が終わって
出来上がった
授業記録

どこにも音楽はなく
音楽から滑り落ちた子どもの
静かな言葉が
続いているだけ

あのとき楽しそうに
歌った歌は
どこへ行ってしまったのか

あのとき叩いた太鼓の
響きは
どこへ行ってしまったのか

記録用紙の上を探し回っても
見つけられない

そこには紙の
薄さ
があるだけ

 学校では授業研究がさかんに行われています。そのことは大切なことだと思います。
 私も、随分、授業参観をしましたし、その後の協議会にも何度となく参加し、発言もしました。有意義な時間だったと思います。
 そして、その協議会で得たことを次の授業に生かしている先生方を多く見て、頼もしく思いました。そのような継続は貴重です。
 ただ、この詩にあるように、その授業の受け止め方は、これで良かったのかと、どこかで静かに振り返る必要があるのではないでしょうか。
学校は忙しい。けれども、その忙しさのスピードにだけ自分を合わせてアクセルを踏み続けていては、子どもの中の大事な何かを見逃してしまう。
どこかで、ブレーキをかけ車を止め、別の考え方が可能かどうかを、静かに考えてみる時間が必要です。たとえ、新しい考えが思い浮かばないとしてもです。
 その時間を持つこと、その余裕。そのことが、子どものことを考える時、大事に思えるのです。
(日本国語教育学会理事)