全国文学館めぐり(6) 知里幸恵 銀のしずく記念館
北 島 雅 晴

 8月末の北海道は、わずかに秋らしさを感じさせてくれます。登別は現在、温泉街として有名ですが、昔は港町として賑わいました。知里幸恵は登別で生まれ、小学校に入学するまでの6年間をこの地で過ごしました。ヌプリ(にごった)ベッ(川)という登別の語源は、温泉地から硫黄を含んだ水が流れて川がにごるという意味だそうです。JR登別駅から1キロ半ほど行った静かな住宅街に当記念館があります。2002年に始まった募金活動で建てられた記念館は、幸恵の父が育てた森の中、幸恵の生家の横に建てられました。

 知里幸恵は、1903(明治36)年生まれ。小さい頃から祖母のモナシノウクと暮らします。小学校入学を機に、旭川の叔母金成(かんなり)マツのもとで過ごします。祖母との日常会話はアイヌ語であり、幸恵は子どもの頃から、和人の言葉(日本語)とアイヌ語とを使いこなしていました。また、祖母も叔母もユーカラ(アイヌの伝説)の伝承者であり、アイヌの文化を大切にする環境の中で育ちました。15歳の時、旭川を訪れた金田一京助に勧められて、ユーカラを記録する作業を始めました。アイヌ語には文字がありませんので、聞き覚えた音をローマ字表記し、さらに日本語に訳すという大変な作業を続けました。アイヌの文化伝統を守るためユーカラの研究に一生を捧げようとしましたが、19歳という若さでこの世を去りました。幸恵のまとめた文章は、彼女の死後「アイヌ神謡集」として刊行されました。「其の昔、此の広い北海道は、私たちの祖先の自由の天地でありました。」で始まる幸恵の序文は、今でも名文として評価されています。

 記念館の玄関を入ったところの研修室にいますと、
「今日は、滋賀県からお客様が来てくださって‥。」
という話が聞こえてきます。その後、地元の方が研修室にいらして、お茶とお菓子を頂きながら、幸恵のこと、アイヌ文化のこと、そして世間話をしていました。しばらくすると、職員の方が、
「ちょっと出かけて来ますので、その前に生家を案内しましょう。」
と声をかけてくれました。
 記念館の周りは、栗や杉の木に囲まれています。これらの木は、幸恵の父高吉が各地から苗を集めて育てたものです。記念館の隣りにある幸恵の生家は、現在までに三度建て替えられたそうです。幸恵は幼少期を木々に囲まれた環境の中でのびのびと過ごしたのでしょう。記念館の建物を外側から見ると、チセ(アイヌの住居)を一回り大きくしたくらいでしょうか。
「建物の東側は神様の入り口にあたるので、人が入らないように木を植えたそうです。」 と聞きました。

   知里幸恵と金子みすゞとは、同じ年に生まれています。みすゞは26歳、幸恵は19歳という短命でした。山口と北海道の生まれで、2人には何の接点もありませんが、もしも、もう少し長く生きて活躍してくれていたらと思うと、残念でなりません。ただ、幸恵の志は、弟の真志保をはじめ、多くの人に受け継がれました。現在、アイヌ文化を紹介する催し物が行われると必ず満員になり、アイヌ文化への関心の高さが伺えます。2020年頃に、アイヌ博物館ができるとも聞きました。子どもたちにも、北海道や東北地方で暮らしたアイヌ民族の歴史や文化を学ばせる必要があると思います。
 地元の人が気軽に訪れ、世間話をして帰っていく、とても温かい雰囲気の記念館です。ぜひ一度訪れてほしいと思います。
(さざなみ国語教室同人)