全国文学館めぐり(5) 松山市立子規記念博物館
北 島 雅 晴

 路面電車の走る街が少なくなりました。JR松山駅より路面電車で20分、湯築(ゆづき)城跡の外堀が見えてきます。湯築城は、江戸時代になって松山城ができるまでの平城です。伊予国河野氏が250年にわたって居城としてきました。この一帯は戦国時代まで、政治・軍事・文化の中心地として栄えてきました。明治時代に道後公園として整備され、その一画に本博物館があります。中世の河野氏から江戸時代にかけて、文化と学問を尊ぶ伝統があり、子規はそのような風土の中に生まれました。

 がっしりとした4階建て、建物全体が大きな蔵のような印象を受けます。玄関を入ると、子規や漱石の等身大の写真パネルが出迎えてくれます。本館は、1981年4月に開館しました。「博物館総合案内」(平成17年度版)によると、
「正岡子規の世界をとおして、より多くの人々が松山にしたしみ、松山の伝統文化や文学についての認識と理解を深め、新しい文化の創造に役立てることを目的として開設された文科系の博物館」
とあります。館内は、
 T 道後・松山の歴史
 U 子規とその時代
 V 子規のめざした世界
の3つの空間で構成されています。平成29年にリニューアルされ、その目玉の展示品の一つが、「愚陀佛庵」の復元です。子規が28歳の時、日清戦争の従軍記者として旅順を訪れます。帰国の船内で喀血し、神戸の病院に入院します。その後いったん松山に帰省し、夏目漱石の下宿で、40日間を一緒に過ごします。その下宿は愚陀佛と名付けられ、漱石と子規が文学について語り合った大切な場所となりました。その1階部分を復元して展示されています。

 子規は22歳の時に初めて喀血し、(自分の命はそれほど永くはない。)と悟ります。29歳で病臥の状態となり、34歳でなくなりますが、その短期間で病気と闘いながら成し遂げたことがあまりにも大きいと言えます。
 ○自ら俳句や短歌をつくる。(理想の俳句・短歌を追究する。)
 ○俳論や歌論をまとめ、近代俳句や短歌の基礎を築く。
 ○自宅で句会や歌会を開く。
 ○俳句では高浜虚子や河東碧梧堂、短歌では伊藤左千夫や長塚節といった、子規の意志を受け継ぐ人を育てる。  特に、俳句を文学の一ジャンルとしてその価値を高めたことは、現在の俳句界にも大きな影響を与えています。

 展示室の入り口に、「子規顕彰松山市小中高俳句大会」の入選作が掲示されていました。本大会は、平成28年で51回目を迎え、市内105校が参加し、7282句の応募作品がありました。私が気に入った句を1年生から6年生まで各1句ずつ選んでみました。
 ○ゆうだちにゆれるブランコおいてくる
 ○しがみつく雨にもまけないセミのから
 ○かぎあけて一人るすばん秋の風
 ○けんかして何も言わないラムネ二本
 ○弟とこそこそ話カーネーション
 ○かげろうが働く父の背を包む
もののとらえ方、言葉の使い方がじつにすばらしい。松山の俳句文化の伝統を感じます。
 子規の作品そのものを小学生が味わうのはやや難しいかもしれません。しかし、松山での取り組みのように、俳句が子どもたちに定着している、そんなところに子規の意志が受け継がれていると思います。そして、短い人生の中で、病気と闘いながらこれだけの仕事を成し遂げた子規の生き方に学ぶところが多いはずです。
(さざなみ国語教室同人)