▼学校でよくみる風景。廊下を走るように教室に向かう子に、「ちょっと待って。今、 何をしていたのですか。」と先生。その意図は、「廊下を走っている」ことに気付かせるため。返事は、「授業が始まるので教室に行くところです」と、急いでいたことを伝える。

▼先生が答えてほしかったのとは違う。「今、廊下を走っていることを注意しているのです。」「廊下を走ったでしょう」と念を押す。しかし返答がない。この後は、おそらく、廊下を走ったことや正直に答えなかったことに指導を受けたという推測ができる。

▼この風景を言葉の指導と関係させて考えると、「教室に行く」「廊下を走る」という行動が言葉として伝わっていなかったことである。子どもは、廊下を走っていることより授業に遅れてはいけないことが頭にあり、走っていることには気がついていなかったということである。一方、廊下を走ることによって起こる怪我などを考えると、指導し注意をするのは当然という考えが先生にある。その当然を理解させるのが学校であるとしたら、沈黙させ肯かせるのでなく、廊下を走るという状況を説明することを教える機会と捉えると対応に幅ができる。

▼最近、子どもの言葉に興味を持っている。トラブルが 起こる。そのきっかけは子どもが保護者に伝える言葉。状況の説明である。結果として指導が入らないという出来事を耳にする。場に応じた言葉を使ってほしいという思いを持っている。

▼少し、距離を置いて子どもの言葉をみていく。真実が見えてくる。子どもはその時その場では精一杯、自分の言葉を使って表現しているのである。習得している言葉の量が少ないということであろうと考えている。考えると指導の方向が見えてくる。(吉永幸司)