教材を読む 「ごんぎつね」@
吉 永 幸 司

 教材を読むのが楽しい。自問自答する。不思議と新しい事柄を発見する。

(1) これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いたお話です。
 最初の文。「わたしって誰ですか」と質問したことがある。多くの場合、作者の新美南吉と答える。深く考える必要はないが、気になるのは茂平さんとの関係。
 ごんぎつねと兵十、加助というおそらく架空の人物であろうが、いかにも本当らしく伝わってくる。「話し終わって茂平さんは」という続きを書かせたらいいよという助言をもらったことを思い出した。今も答えは出せていない。

(2) ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。
 「ひとりぼっち」からいろいろなことが思い浮かぶ。家族がいないという意味がある。家族だけで なく近隣に親しくする仲間がいないという場合もある。
 お話に関係がないところで考えれば、友達がいない、友達はいても心を許せる仲間がいない。家族 がいてもひとりぼっちと思うこともあるだろう。様々に思いを広げると重いことばである。
 学級で疎外されていた子が、ごんぎつねの学習になって「ごんの気持ちがよく分かる」と言って、 授業に燃えたという話を聞いたことがある。「ひとりぼっち」に共感したと担任が力強く語っていた のが印象に残っている。

(3) 畑へ入っていもをほり散らしたり、菜種がらのほしてあるのへ火をつけたり、百姓家のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。
「菜種がら」のところで少年時代を思い出した。夏休み前の7月になると、作業場で山のように積 まれた菜種を竹で叩いた日の記憶である。家族で乾いた菜種を1本1本手に取り叩くのである。春に 黄色い花を咲かせた菜種は、そのまま田植えの時まで放っておく。花は枯れ青さの残ったものを根から掘り起こす。田の畦にそって生えている樹木に架けておくと、7月頃に枯れる。それを叩いて、種と菜種がらと菜種の枝に分けるのである。晴れた日の仕事。乾燥しているので埃の中で、息苦しい仕事であった。
 仕分けをした菜種は、そのまま油を職業にしている家へ持って行き、食用油に、菜種の枝は薪木と いっしょに燃料として保存。山のようになった菜種がらは、家の物置、あるいは家の近くの畑に山の ように積み上げていた。火をつける初めの仕事(たきつけ)の大事な材料であり、大事に扱えば半年 は使えるだけの量はあった。これにいたずら心で火をつけられたら大変な迷惑になる。読み過ごしそ うな「菜種がら」の思い出である。もちろん、菜種は、稲の刈り取りの後、1本1本、田に植えた。これも、冬に向かう農家の仕事であった。
(京都女子大学)