書教育雑感 その2
中 嶋 芳 弘

 「手本に酷似することを求めない」指導要領の変遷をひもといてみると、こういった考えは今も指導要領の中に流れていなければならないのですが、現実にはそれを否定する方も多いようです。それはどうも現実の子どもを見ることをやめ「やがては、ペンや万年筆さえ使う必要がなくなるだろう。毛筆など問題にならない」という強硬な意見に押され、毛筆書写の廃止を恐れているとしか思えないのです。
 「複写機を用いれば、筆者が自分の好きな形式に好きな書きぶりで書いておけば、そのものズバリ。瞬時に何枚も複写することができる。その上、肉筆であるから活字と違った人間味になる趣を伝えることができ、まことに一挙両得である。特に毛筆書はその視覚性、適応性、精神性などの特質によっていよいよ生活の場に利用されることが多くなってきた」と「改定現代の書教育」の中で語られた上條信山先生すら、国語科の中にでも毛筆が残っていればよい。芸術性は認めていても、それを前面に押し出して毛筆がなくなるくらいなら、硬筆を的確に学ぶための毛筆が意義があると考えた方がよいし、「美しく書く」を「整えて書く」と表現することで納得させられるのならそれでよい。毛筆があれば文字意識を高められると、児童の姿から離れて毛筆による書の教育の存続を考えているように思われてならないのです。

 子どもは全く素晴らしいものです。あらゆる可能性を秘めたものです。子どもに接するとき確かに基礎・基本は大切ですが、その基礎・基本と考えるものが子どもの実態から離れているとき、それは結果的には子どもの力を育てないものにとなってしまいます。
 三原先生が墨美十二号「書教育『習字』における芸術科的色彩」中に、以前の指導要領中学校国語科編の諸注意から拾っておられる文を書き出してみました。
@受動的な模倣から解放する。
A用筆の末端にのみとらわれない。
B楽な気持ちでのびのび書く。
C臨書のみならず個性に適した書風を育てるようにする。

 こうした以前の指導要領の趣旨が、現在の指導要領にも受け継がれているはずであると論ずることは、まして、それを小学校の現行指導要領に適用することは議論の起こることだと思います。しかし子どもを前にして何が「基礎・基本」かを見据え、指導の工夫に取り組むことは教師の責務です。こうした方向から考えるなら、前の4項目は私たちが現在も心しておくべきことであると思われてくるのです。
(彦根市立河瀬小)