巻頭言
卓球で育てられた人間性と世界観
江 口 冨 士 枝

 昭和一桁生まれ(七年)の私は小学卒業の日が大阪大空襲の日で中止となり、女学校一年の八月に配線を迎え、半焼の校舎に最初に出来たのが卓球部でした。卓球部は音楽室の隅に接ぎ張りだらけの台が一台、学校のラケット、ボール一個の状態で、先輩併せて十名程で熱心な先生を中心に楽しい部活でした。以後六十年余年続けるとは思っても居りませんでした。
 敗戦に依る国の変貌で根底から覆った激流の中で、卓球に依って救われた教えられた事柄が多々あります。不器用な私は、人がすぐ出来る事がなかなか出来ないし覚えられない。同じ様に練習しても皆のように上手に出来ない。皆と同じレベルになるには皆の倍も三倍も練習しなければならないと気づき実行しました。それは好きで楽しかったから出来たのです。
 また、家業の美容院を継がせたい父親の反対があったから、余計に卓球が好きになったのかもしれません。毎朝小学校に行く前に吉川英治の三国志や宮本武蔵全十六巻を音読させた父でした。また、「医者の免状を持った美容師」になれ言うのが父の理想で、大阪薬科大学の医科コースに父が申し込みをしました。

 一九五四年ロンドンでの世界選手権の日本代表に女子四人が選ばれ英国に遠征。大戦後のことで対日感情が頗る悪く、食糧事情の悪い英国で「おむすび」のり巻きを食べているところを写真で新聞掲載され、「日本選手が強いのは、選手が石灰を食べているからだ」と書かれました。どんなファインプレーでも拍手は皆相手国にされ無視されたものです。

 一九五五年オランダ大会の折でした。男子団体で日本とハンガリーが対戦の折、ハンガリーのセペシ選手と田舛選手が凄まじい「ラリー戦」になり、左右前後に双方共動き回り固唾をのんで見守って居りましたら、セペシ選手が足のバランスを崩して仰向けにひっくり返りそうになった瞬間に、ベンチに居た萩村さんと田中さんが床に身を投げ出してセペシ選手との間にクッションになって転倒の害を防ぎました。
 セペシ選手は右腕未発達で左利きのプレイですが、体全体のバランスが激しい動きの連続時には耐えられなかったと思います。以後ヨーロッパの国の選手は勿論、観客もフェアに日本に拍手を贈ってくれるようになり、当時の鳩山首相も官邸に招いて下さいました。

 胸に日の丸を付けて代表になるのは国を代表する責任が生じ、代表に洩れた人の分まで頑張らねばなりません。自分の技術、気力、体力の限界に挑戦です。コーチもいない自己との戦いです。手探りで世界レベルの技術の模索と維持発展、そして自己独特のずば抜けた技術を持たねば世界で勝てない。私達は身近にライバルが居りました。男子が一時間のトレーニングなら私達は二時間走る。練習時間も倍にして意識し、団長から練習を少なくする勧告がありましたが、縮小しませんでした。欧州遠征飛行機五十時間と大会二日前現地入りで、疲労は回復出来る体力計算がありました。
(元卓球世界チャンピオン)