巻頭言
適塾のヅーフ辞書
出 井 豊 二

 私はグラフィックデザインが専門で、大学ではシンボルマークやピクトグラム、表示サインという言語を用いなくてもコミュニケーションができる非言語の領域を学生に指導している。その対極にある言語コミュニケーションについて思いつくことを述べたいと思う。

 十数年前、京阪電車の特急車両に飾る作品を提供することになり、大阪に現存する町家のはり絵作品を制作するために京阪淀屋橋の近く適塾を数回訪れた。

 建物前に設置されている立札から引用して適塾を紹介すると「幕末の蘭学者であり、医師、教育者として知られる緒方洪庵が天保9年(1838年)に大阪瓦町に適々斎塾を開いた。前年には大塩の乱が起こり、徳川体制が崩れていくなかにあって、全国から学を志す多数の入門者が門をたたいた。その数があまりにも多くなり、手狭になったため、弘化2年(1845年)現在の北浜に住宅として買い受けた。文久2年(1862年)までの17年間、洪庵の薫陶を受け日本の近代化に尽くした人物が数多く巣立っていった。蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、北浜町家建築の姿を残す貴重な遺構である。」と記されている。
適塾
 今は大阪大学の施設として一般公開されており、建物内を自由に見学できる。1階は教室と奥が家族のための部屋で、2階は塾生が起居した大広間や学習の間がある。中でも一番興味深いのは、ヅーフ部屋に保存されている「ヅーフ辞書」である。長崎出島のオランダ商館長ヅーフが作成した蘭和辞書で、適塾にも1冊しかなかった。適塾における教育の中心は蘭書の解読であったため、予習のためにはなくてはならない本であった。塾生はこの辞書を毎日奪い合うようにして勉強し、成績によって分けられる等級の上位にいくよう努力した。競い合う向学心と厳しい教育方針が、明治維新の激動期に活躍した門下生を多数輩出する結果となった。その中の一人、福沢諭吉は「凡そ勉強というものについて、この上にしようもないほど勉強した」と述懐している。大広間の真ん中にある柱には激論のあまりか、無数の刀痕が残されている。
(京都女子大学教授)