巻頭言
対話の中に見える文学の心 =4年「一つの花」の実践から=
笠 原  登

 作品の終章「結晶場面」の学習の一部を再現したい。(平成2年)

問い 「ミシンの音」の場面から何が想像できるか。
加藤 ゆみ子のお母さんがふんでいるミシンの音の一つ一つが、お父さんの声ではないかと思います。永井さんはどう思いますか。
永井 私は、ミシンの音がお父さんの声だとは思いません。お母さんもゆみ子もコスモスの花が開くごとにお父さんが思い浮かんでくるんだと思います。
加藤 お父さんにコスモスをもらったことなんて覚えてないんじゃないですか。お母さんは忘れられないと思います。だから、ミシンの音が速くなったりおそくなったりするのは、お母さんがお父さんと心の中で会話をしているからだと思います。
永井 加藤君の話を聞いていると、なんだか、私もそう思えてきました。まだ、お母さんの中でお父さんは生きていると思いました。
加藤 永井さんのいう通り、お父さんはお母さんの中で生きているけれど、ゆみ子の心にも通じているかもしれないと思います。
永井 ゆみ子の心にお父さんが生きているのではなくて、コスモスの花に表れているんじゃないかと思います。きっとお母さんから聞いてコスモスを大事に育てていると思います。
加藤 ぼくは少しちがって、ゆみ子はお父さんのことは覚えていないので、コスモスについてそんなことは思ってないと思います。でも、ミシンの音でお母さんだけがお父さんの会話しているんじゃなくて、なんだか、ゆみ子もかすかに気づいているかもしれません。
永井 まとめます。私は、あのミシンの音はお父さんと通じ合っているように感じます。でも、お父さんは帰ってこないのだから、コスモスの花は私には不幸の花に見えます。

 この対話活動には、ことばへの着目から、ことばに隠された真実の悲しみの発見に至る想像的な読みがある。
 速くなったりおそくなったりするミシンの音の一つ一つがお父さんとの心の会話だという。それを受けて、お母さんの心の中にお父さんは生きているという表現が出てくる。お父さんの戦死を想定して、コスモスの花に不幸を感じている。
 残された母子への共感が湧く想像的な対話となっている。
(元川崎市立中原小学校教諭)