巻頭言
国語学者と哲学者
大 谷  弘

 私の妻は中高一貫の女子高で国語の教師をしている。妻が国語の教師をしていると便利なのは、漢字を訊くとだいたい教えてくれるということである。私自身は漢字が苦手で、大学の講義でも誤字を学生に注意されたりするのだが、家では妻に訊けば辞書は必要ない。もちろん、時には、妻は書けないが私は書ける、ということもあって、そんなときは結構うれしい。先日も「蝶番」という字を妻が書けなかったので、勝ち誇った顔で教えてしまった。

 国語教師の妻を持っていると、他にもよいことがある。それは、国語教師の、というよりも、妻は国語学を専攻していたので、国語学者の、アプローチを教えられるということだ。私は言語哲学を専門としているのだが、国語学者と哲学者では言葉への注目の仕方がずいぶん違う。

 これは妻の専門が訓点資料であるせいかもしれないが、妻は、動詞や名詞といった品詞の区別などに関して非常に厳密である。ところが、哲学者にとっては、品詞の区別はさほど重要ではない。「投げる」と「意図する」は、同じく動詞だが、哲学的には非常に異なる。どちらも動詞だという理由で、意図することを投げること同様に動作の一種だと考えると誤りやすい。社長が経費の節減を命じ、社員が職を失うとき、社長のした動作は経費の節減を命じることだけだから、社員が職を失うことを「意図していなかった」とするのは、少し無責任だろう。あるいは、「石」と「正義」はどちらも一般名詞だが、世界のどこを探しても石とは違い「正義」は転がっていないということから、正義など存在しないと考えるのは間違いであろう。

 哲学者が言葉に注目するのは、言葉が我々の生活の中で果たす役割を考えることが大きな意義を持つからである。哲学者にとっては、言葉が我々の生を導く仕方が問題であり、これは品詞の区別からは見えてこない。だが、そのことは、品詞の区別に注目することが、いかなる意味でも重要ではないということを意味しはしない。品詞の区別は、哲学者とは違った観点からではあるが、言語現象を明晰にすることに大きく寄与するのである。私はついつい、言葉に対して自分が特定のアプローチをしていることを忘れがちだが、妻と話をすることで、言葉に対する様々なアプローチがあるということに気付かされるのである。
(武蔵野大学講師)