巻頭言
「ことば」考
西 居 貴 子

 ことばの観察者として、私なりに探っていく学問に「言語学」なるものが存在すると知ったのは、息子が中学受験を控え、図らずも国語教育に大層神経を使っている某小学校に通っている縁もあって、単に傍観者だけではいられなくなった副産物であった。

 学問とは、本業も含めて、好奇心の上層部に位置する。しかし、所詮死ぬまでの手すさびのつもりであったが「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈る山中鹿之助ではないが、私の知的苦悩の足跡をご覧あれ。

 「言語学」とは、ことばの発語を文字という手段を駆使して紙の上に「ことば」定義するものであるらしい。つまり言語学としてのロジカルな解釈は、そのことばがいつでも同じ意味を持ち続け品質保証付の「標本」となることであるらしい。

 私は科学者である。科学者は論文を書かねば成り立たない。科学もまた典型的な「言説」であるが、科学的な言説は、言語学の行動規範における発語の標本化っと同様に、事実への対応を公式に要求される。そこで私は言語学の公式化を考えてみた。

 日常の対人コミュニケーションの現場で、ことばを伝え合う場合、その標本とは全く異なっためっせーじを伝えてしまうことはなかろうか。それはつまり言語学−仕組み−としてのことばと伝え合うことばは、多くの場合混同され直接的な伝え合いの現場では、お互いに遭難してしまうことがあるのだ。

 枚数制限があるので別の回に詳しく述べることとするが、すなわち、伝え合い→音→声→ことば→言語の音声と細分化される。

 ここで言語の音声とされるのは、現場では「声」ではない。それは特定の言語の発語に認められる声の種類なのではないかと公式化してみた。これを総称して普遍語ではニュアンスと呼ぶ。しかし、その結論では科学者の胸に落ちず巷間の妄執となる。この迷宮に入り、私の混乱はますます深まることになった。

 よって、ことばの一部分である言語を頼ってコミュニケーションは図れない。もしくは、伝え合いには、ことばの他に数々の要素を含むのではないか、と結論づけてみた。

 強引且つ引用による言語学論。ひきつづき手すさびだけではすまなくなっていく。
(医師)