巻頭言
評価を見直す
石 川 雅 春

 十年ぶりに小学校から中学校へ異動し、一番違和感を感じたのが評価の問題である。中学校で評価と言えば、それは直接的に評定という認識を思いのほかどの教師も強くもっていた。

 各教科ごとに教師同士で統一した評定算出のための評価項目がある。たとえば、「意欲・関心・態度」の観点では、@発言の回数A提出物の状況等三項目となっている。そして、項目ごとに点数化し、コンピュータに入力すると、合計が何点以上ならAという具合に自動的に算出される。その総合計点数や観点別のABCの状況から判断し、五段階の評定も瞬時にして算出される。教師の評価は、点数化までの作業という雰囲気がすでにできていた。とくに、より客観的に証拠立てることが強調され、発言回数一つをとっても、毎時間補助簿に記録している。

 そして、いつのまにか「自分は評価者だ」というふてぶてしさが顔に表れ、「これは成績に入れるよ。」と繰り返すことで、生徒の意欲化を図ろうとしている自分、発言回数をチェックするのみでほっとしている自分がいた。

 それでも受験を控えた三年生には通じたのだが、一年生は…なんとも寂しそうな顔が迫ってきた。

 もうすぐ一年が経とうという時、はたと自覚した。このままでは、教室が評定のためだけの場所になりかねないと。「愛の場所」と位置付け、国語教室作りに奔走していた自分は一体どこに行ってしまったんだと。

 評価は本来、子どもが伸びるためにあるもの。教師サイドで言えば、丹念に実態を把握し、手だてを打ったり、認め賞賛し励ましたり、といった教育的な営みのはずである。意欲面一つをとっても、発言の回数をチェックすることよりも、もっと内面的な心の動きを少しでも多く把握し、どう生徒にフィードバックしていくかこそ大切であるはずなのに。ああ、なんたるえせ実践者。

 それからまず始めたのが補助簿の工夫。縦に名簿をつけ、横には記述欄のみを設けた。一時間ごとの観察内容を中心に、授業後一気にコメントを書けるだけ書くようにした。担任にもコピーを渡すことで、生徒の成長を知らせる手だてとして機能し始めたのを感じた。現在では、学校全体で取り組めないかと模索中である。

 本来の評価の機能を今こそ、中学校現場で。
(愛知県吉良町吉良中学校)