巻頭言
指導者の役割とは
内 田 仁 志

 現在、趣味で水泳とピアノを習っている。レベルはどうかというと、水泳は時折、新聞の地方版に名前が載るくらいだから優秀な方なのだろう。
 一方、ピアノはどうか。こちらは全くうまくならない。そもそもピアノを始めたきっかけは教職五年目にして初めて小学校一年生を担任したときに渋々習い始めたのがきっかけである。その時、私は二十七歳くらいだったはずだが、それまで私は鍵盤に触れたことがなかった。私の育った所はそもそもピアノ教室などというものはなく、ましてや男の子がピアノを習っている、などというとからかいの対象になりかねない(きっとなっただろうが)雰囲気であった。水泳とピアノ、私にとって得意なものと不得意なものであるが、共通しているのは両方とも指導者(コーチ)について学んでいるということである。習っている身として、高いレベルからも低いレベルからも指導者について述べることができる。それは指導者は抜群の力量をもち、教わる立場に圧倒的な力の差を見せつけなければ信頼されないということである。

 私事になるが水泳の練習では「なんでこの年になってこんなに辛い思いをしなければならないのか」と思う時もある。レースが終わると足がガクガクし、三十分以上うずくまる時もある。ピアノでも小学生が楽々弾ける教本を一生懸命に練習する時もある。なぜそんなことができるか。指導者を信頼しているからだ。指導者のいうことを聞いていれば、必ず自分にプラスになっていい結果が出ると信じているからだ。

 今の学校教育ではこのような師弟関係はなかなか望めないだろう。指導が支援と言い換えられ、子供の自主性が尊重される今の教育現場では教師も自分の個性を出すのは難しい。(実感)
 ただ授業をする側からすると子供に伸びて欲しい、たくましく成長して欲しいと思う気持ちはいつの時代も共通であるはずだ。高校生の時、講習で英語の講師に言われたことを思い出す。
「授業は先生と生徒の戦い、真剣勝負だ。私(講師)がいい授業を提供できなければあなた方(生徒)は授業に出ないだろう。だから私は真剣なのだ。」
 指導する立場になって、戒めとして思い出す言葉である。そして私はいつの時もよい授業を提供する力量をもちたいと思う。
(足利市立南小学校教諭)