巻頭言
倉 澤 栄 吉

小学校は「国語力」は「人間力」と位置づけ徹底して国語にしています。学校がかわっていく手ごたえを感じています。
 あらためて国語の大きさをしみじみ思っています。
これは、ずっと以前三百号に近づいた頃、依頼された原稿に添えられた文章である。このご依頼に、添えず私は怠けていたので、今改めて書いていくのがまことに恥ずかしい怠け者の筆者である。
 師走になった頃に文章にしておれば、右のような言いわけはせずにすむのにと反省しながら書いているが、このような言いわけの文章は悪文の最たるものである。
 さわやかな品のよい(言いわけがましくない)記述をするのが望ましいのだが…。
 人間力としての国語力が、国語の本質なのだから、文章に書き手の「人間」が出てくるのは当然である。が、「言いわけの文章」はさまにならない。

 三百号記念に「吉永さんの日々の繁忙は私の体験したことのないものなので、朝から晩までの時の過ごし方を伺って見本にしようか」と考えたことがある。
 校長職という立場は、繁忙さの中核とすべきであろう。私の長い人生経験の中で一度も勤めたことのない「校長」という職場は、何人かの友人がげんに勤めているから、察知することはできる。その感覚は、想像するだけで「相当なもの」である。これには、忙しい主婦会社勤めとは質の異なった「責任」を伴う。自分のすること感じることが、「仲間の職務感覚」とは質的に違うのである。「よくやるわ」等といういたわりめいたほめ言葉になる。
 この種の感想を吉永さんにお伝えしても、大した援助にはならないが、吉永さんのファンの中には、私のような感想を持っている人が何人もいるだろう。
 筆もたち、権威も備わり、そして部下や同僚や上司にさえ好感を抱かせるパーソナリティに恵まれた吉永さんである。
(日本国語教育学会会長)