巻頭言
谷 中 遊 水 池
水 野 ト シ 子

 廃村の万緑光をふりかぶり  トシ子

 谷中遊水池は今、多くのファミリー、若い男女、リタイアされたご夫婦、女性たちの仲間等あらゆる階層の人たちの憩いの場であり、社会の騒音から隔離された別天地です。

 大夏野ブーメラン追う父子かな  トシ子

 ここ旧谷中村は、平和な農村でした。明治半ば足尾鉱山の流す鉱毒のため、渡良瀬川の流域では鉱毒に大変悩まされたのでした。雨が降ると、捨てた鉱石のかすから毒がしみ出て、近くを流れる渡良瀬川は青白く濁り、何万匹もの魚が白い腹を見せて浮き上がり、その近くの田畑に植えた作物は、根から腐って枯れてしまい、農民達は貧苦の底にしずむようになったのです。
 この時立ち上がったのが、後に「明治の義人」とよばれるようになった田中正造です。栃木県会議員から衆議院議員になった正造は、1891年(明治24年)日本に国会が開設され、第2回目の議会で、死んだ魚や立ち枯れた稲などを取り出して、「足尾銅山の流す鉱毒のため、渡良瀬川の流域では、これこのとおり魚は死に、作物は枯れてしまう。政府は直ちに鉱山に命じて鉱石を掘るのを止めさせ、鉱山の経営者は農民達の被害をつぐなうべきであります」と叫ぶのでありました。一方、会社はますます大規模となり、鉱毒の害は一層ひどくなりました。正造は「足尾銅山の採鉱を停止すること、それ以外に村々を救う道はありませぬ」と叫び続けるのでした。こうして訴え続けたが政府も会社も殆ど何の手も打たなかったのです。
 正造は遂に衆議院議員をやめ、明治天皇に直訴したのでした。その後政府は、谷中村を遊水池にしてしまったのです。正造は、政府は間違っている、谷中村を元通りにしようと、残っている力を注いだのでしたが、政府は人の住んでいる家々を取りこわしてしまい、谷中村は滅びたのでした。
 駐車場に車を止め、遊水池の空気に触れると、よしきりの声に圧倒され、複雑な思いになりました。

 天晴るるよしきり声を重ねけり  トシ子

 一面の葦の茂み、天を仰ぐような桑の木々に桑の実がいっぱい生っていました。熟れ落ちた実は地を染め、遠い郷愁に誘われました。

 桑の実のこぼれこぼるる旧谷中村  トシ子
 梅雨の蝶大葦原に消えにけり  トシ子

 秘話を語らずにはいられない谷中遊水池です。

 鎮魂の鐘の余韻の涼しかり  トシ子
 葦葦の風鳴る正造屋敷跡  トシ子
(埼玉県 俳人)