【特別寄稿】
短 歌 と 文 体
泉  明

 私は長浜出身、今年68歳になる前期(?)高齢者です。10年前に公務員をリタイアすると同時に惚け防止のため短歌の勉強を始めました。所属する短歌結社の基本方針を忠実に守り、文語、旧かなづかいより作歌しています。

 ところで、今の短歌界では、若い人を中心に口語で短歌を詠む人が増えてきています。中には、五・七・五・七・七という短歌の基本のリズムを整える等のため、あえて口語と文語を交ぜて詠う歌人もいます。
 俵万智さんの歌に、「さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園」という口語による1首があります。つい数日前には人々が花見に興じて華やかだった公園の、桜が散った後の静かでもの寂しい雰囲気が見事に表現されています。
 このように、口語短歌にもすばらしい歌がありますが、概して言えば口語の短歌は何となく間延びがしてしまりがないような気がします。これはあくまでも私の個人的な主観に過ぎませんが。

 さて、私は、昭和15年生まれです。昭和22年に始まった新しい学校制度(6・3・3制)による小学校の最初の1年生でした。以来、国語は口語、新かなづかいで勉強しました。文語、旧かなづかいは確か高校の「古文」でちょっと囓った程度です。しかしながら、私は、文語、旧かなづかいにより歌を詠むことに最初からあまり違和感もなく、また、さほど苦労もしませんでした。これは、子どもの頃、いつも正月に夜遅くまで父母、兄姉と興じた小倉百人一首のお陰だと思っています。

 最近、ちょっと嬉しいことがありました。大阪狭山市にいる小学3年生の孫娘が担任の先生(若くてとてもやさしい女の先生とのことです。)に百人一首を習っているというのです。正式の教科かどうかはわからないのですが、何でも孫の一番好きな歌は、「今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな」(素性法師の歌)だそうです。とても歌の意味まで理解しているとは思えませんが、孫はよどみなく暗誦します。
 孫たちに百人一首を教えて下さっている若い先生に喝采を送るとともに、孫が文語、旧かなづかいで短歌を詠んでくれる日を心待ちにしています。

 終わりに、拙歌ですが、懐かしい故郷を讃えて筆を措きます。
淺春の湖北は人も観音も雪解の温きひかりをまとふ
(さいたま市在住)