巻頭言
「さざなみ」の遺訓
平 野 年 光

 私と「さざなみ国語教室」との出会いは、この度が初めてである。その出会いも、すれ違いざまの袖の触れた程度で、実際には吉永先生にいただいた第三百号の記念誌を、読み流しただけである。それでも「さざなみや」の詠み人知らずが頭に浮かんで、懐かしいような、甘酸っぱい親しみを感じるのはどうしてだろうか。

 古来、墨画詩人達の格好の創作オブジェに、「さざなみの国、近つ淡海」はなり続けててきた。文学や芸術に縁の薄い私ですら、いくつかの詩歌や墨画が目に浮かぶ。「志賀の都」の昔から、この国は悠久の文化を育み続けてきたのである。

 泉州堺が歴史の表舞台に登場したのは、十五世紀半ば。歴史は浅いけれど、先人たちの懸命な努力のお陰で、「西に堺の教育あり」を謳歌できた時代は、確かにあった。しかし、その面影も五五年体制の崩壊とともに、今はない。

 「滋賀県国語教育研究会」と称してもよいのに、「さざなみ国語教室」と名づけられたた同人諸氏の理念はまぶしい。戦後教育の抱えた矛盾を、恐らくはこの「教室」も抱えられたであろうけれど、そんなことをものともせずに、三百号を迎えられたのだ。歴史が違うと言ってしまえばそれまでだが、なんともうらやましい限りである。

「それ、子どものためになっているのか。」
「子どもの顔が見える実践なのか。」
 三百号で、発起人の一人であった高野倖生先生(「近江の子ども」編集長)の遺訓を、御子息の靖人先生が、「遺影の父からの声」として紹介しておられる。泉州弁に翻訳すると
「それ、子どものためになっとんけ。」
「子どもの顔が見えとんけ。」

 この四月、堺に新しい教育長が就任して、教育復興を高らかに宣言した。「さざなみの遺訓」を泉州弁に変えて、それをそのまま郷里教育復興への合言葉としようか。
(京都女子大学教授)