巻頭言
教文系と法経系
倉 澤 栄 吉

 このごろ、「教育」の二文字が「いじめ」に会っている。教育関係の現場人がつるし上げを受けている。学力低下から始まって、教師力低下に至り、責任を追及されている。

 挙句の果て、教師の再教育、資格限定、追放に至る措置が大まじめで論じられている。論が部内から起こっているのではない。マスコミを背景とする「世論」が主役なのだ。世論を形成しているのは、文科省ではなく、政治・経済界の教育の素人たちだ。教育現場の経験が皆無で、子どもたちと直接して、悩みや苦しみや反省を経験したことの無い人たちなのだ。

 教育の仕事は教育の事に当たっている人々の専管事項たるべきではないか。その責任を何よりも深く感じている大多数の教師たちは、黙々と、批判に堪え、ほんの少しばかりの成就感と数多くの失敗・反省の情をもとに、少しずつではあるが、進歩改善を心情として、日夜奮励している。

 最高責任者の校長に、少しばかりの教育非関係者が交じっているからといって、排他的な私情を訴えているのではない。十人の校長のうち一人ぐらいは、毛色の変わった人間の存在は必要なのだろう。スポーツマンや理系やお医者や保健関係など。

 しかし、今の世論形成者は、政治家、経済人出が、少しばかりの学者を交えて「改革・改革」と叫んでいる。これでは「子ども」に届かないではないか。改革推進の人も、法学部卒を中心に、財界の管理者経験を足場にしている。こういう人たちが、一人一人の児童生徒の「作文を見てあげる」ような期待をするには、何年もの経験が必要なのである。

 この「実践的経験」を、三十年も続けてきた近江の研究者集団の「内なる声」を代弁する思いで、この小文を書いた。
(平成18年12月24日)