巻頭言
ことばの響き
羽 溪  了

 我が家の子ども達が、何やら妙な実験をやっていました。まず同時に炊いたご飯を、煮沸消毒をした同じ形の二つの瓶容器に、同量入れ蓋をします。そして一方には「有り難う」と優しい声でことばを、又もう一方には「馬鹿野郎」と罵りのことばをかけます。

 これを毎日何回となく続けますと、「馬鹿野郎」と罵っていた瓶のご飯は、一週間も経たないうちに底の方から黒く黴てきました。一方「有り難う」と優しく声をかけた瓶のご飯は、全く黴る気配を見せません。その実験を始めて三週間以上もたつと、片方は見るも無惨な黴だらけです。しかしもう片方は、未だ綺麗なままです。

 その現象に驚きながら、黒く汚く黴たご飯の瓶を見ていると、心が苦しくなります。全く同じ時期に同じ処で生まれたお米でありながら、同じ条件で炊かれ保管されたにもかかわらず、かけ続けられたことばによっては、こんなに違いが現れてしまうのです。実は他の国の同義の言語で行っても、同じような結果になるそうです。

 又、水に対して優しいことばと汚いことばをかけてみます。その水の結晶を顕微鏡で見てみると、優しいことばをかけた水の結晶は、綺麗な六角形の形をしていますが反対に汚いことばをかけた水の結晶は、六角形の繋がりがバラバラになり、美しくありません。

 お米や水にことばの意味など分かるはずがありません。それらは、ことばの意味を理解して、反応したのではないと思います。ことばには「意味」以外に、実は「響き」という大切な要素があることに気付かされました。

 素晴らしい現象に出会えた感動と共に、その反対に恐ろしさを感ぜずにはいられません。「詰られ続けて汚く黴るのは、ご飯だけではない。自分は多くのいのちに対してとんでもないことをし続けて来たのではないか?」との反省と不安の思いが交錯しました。

 そんな私でも、子ども達は「おとうさん」と呼んでくれます。自分にかけられていることばが、単なる呼び名を超えて、ふっと自身の父親の懐かしい優しさや厳しさの響きとなってジワッとわき上がり、心温まる思いに駆られることが時々あります。ことばの響きは心を温め優しくもしてくれます。

 意味をも超えたことばの美しい響きを、大切にしたいものであると、心から願う日々であります。
(神戸女子大学助教授)