評 語 ・ 考
吉 永 幸 司

◆「書く」活動を授業に取り入れると、読む、評語を書くという教師の活動が生まれる。
 多くの場合、「がんばって書きました」「しっかり見ています」という態度面が中心になる。しかし、それでは、どの教科の評語であるかはっきりしない。

◆理科のノートに、「まじめに観察しました。ノートのまとめもよくできています」と書いているのを見て、この評語で意欲がわくのだろうかと思った。そこで次のような提案をした。

◆理科の学習として、「数値」「大きさ」「観察」などを書いている子のノートの評語は、「正確」であるかどうかを目安にする。そうすると、理科の学習とは何かが理解できる。
 一方、子どもの感想は「わかった」「よかった」で終わることが多い。大事なことは、「何がわかった」「何に驚いた」であり、「それはどうしてか」につながるものが見えてこないと「分かった」にならない。  理科という教科の特性から、緻密に表現するのが大事である。

◆この考えでいくと、国語の場合は「言葉」である。
 たとえば「今日の勉強はよくわかった」「面白かった」「楽しかった」というような表現で満足する子どもでは、言葉の力を育てる足場を失う。当然評語も「がんばったね」「しっかり書けていますよ」ということで満足させないのである。

 「やまなしを学習した。十二月の様子を想像した。想像するために様子がよく分かる言葉を選んだ。 『黒い大きな丸いもの』という言葉を最初に見つけた。でも、これはやまなしであるのにその言葉を使っていないのが不思議だった。このように書くことで、かにの驚きが納得できる。」

 このような感想が生まれると、確実に国語の勉強をしているという手応えがある。評語も当然、その子が関心を持った「黒い」や「丸い」の捉え方に向くようにする。
 作文では、「様子を分かりやすく書く」という場合、「様子がよく書けています」では、書く力は育たない。「ゴールが目の前にあるのに足が前に進まない。横を、はあはあ息を吐きながら走っていく友達にぬかされた」という作文では、様子に関わる部分を指摘し、くわしくとは何かを指導する必要がある。

◆評語は、態度面の言葉を並べるのではなく、教科の特性を滲ませた内容を具体的に示すことである。評語を読んでいくと、育てたい力が見えるようしていく工夫が必要である。
(京都女子大学)