巻頭言
踊り子はなにも考えていなかった
吉 沢 保 枝

 女子大の入学試験の監督をしながら、国語の問題文を読んでみる。国語の問題というものは、大学入試であれ、中学入試であれ、大体パターンが決まっているようだ。「次の文章を読んで、あとの問いに答えよ」から始まって長文があり、そのあとに次々と小問が続く。

 私は受験生ではないのだから、問題文を読むとなかなか楽しい。このような文章を読むのも久しぶりだし、内容もおもしろいので楽しみながら読んでいくと案外時間がかかる。ところが、いよいよ問いの段階になって「あれ、こんなことを聞かれるのか」と予期しなかった問いに慌てて、もう一度紙をめくって読み返す。次の問いもほぼ同じというわけで、問いの度に何回も読み返さねばならなくなり、遂には時間が足りなくなって焦ってしまう。文が長くなればますます大変なことである。時間が決まっているのだから、いかに速く文を読みこなし、理解するかが決め手になってくる。こうした力をつけるには、小さい頃から楽しんで本を読むという習慣をつけておくほかないだろう。

 しかし、塾では促成栽培方式で押しまくるから、時間のかかるやり方は教えないで、次のようにやるらしい。
 まず、問いから先に読む。そしてどんなことを聞かれているかを掴んでおいて長文を読んでいく、というやり方を教えるそうである。これがいわゆる受験テクニックというものであろう。要領の良い方法かもしれないが邪道でしかない。

 かって、川端康成の「伊豆の踊り子」が入試問題に使われ、問いの一つに「そのとき踊り子はどんなことを考えていたか述べよ」というのがあったそうだが、当の川端さんはこの問題を読んで、「踊り子は何も考えていなかった筈だが、正解は何だろう」と言ったという話がある。よく似た話は多い。

 小説、評論や随筆といった文章は、入試問題として出題されるために書かれたわけではない。だから、これらの文章を鑑賞するための本来の読み方とテストのための読み方とは全く違っている筈である。

 設問を先に読んでから文章を読むという訓練ばかりしていると、文章の真意を汲みとる力が失われてしまうばかりか、文章を鑑賞し楽しむ心のゆとりも失われてしまうだろう。これでは本当の意味での子どもの知性は育っていく筈はないのだが。
(元京都女子大学教授・附属小学校長)