教育実践ってなあに?
森  邦 博

 2年生の国語科の授業を参観した。
(1) 前時学習を振り返り、今日の学習のめあてを確かめ、学習場面を音読する。
(2) 「カギ」を手がかりにおおよその場面の様子を理解する。
(3) 先生と児童とで役割分担して音読@する。(人物の気持ちを想像して発表)
(4) 友達と二人で練習する。
(5) 先生と児童とで役割分担して音読Aし、よいところやまねしたいところを発表。
(6)「へんねえ」と言うえっちゃんの気持ちを吹き出しに書く。(これは次の時間に紹介する)

 子どもたちは和やかに発表する。挙手も「はいっ」「はいっ」という声はなく、しかし、手はしっかりと挙がっている。友達の発表には相づちの声が自然と出ている。私は感心して見ていた。
 すると「分からないんだけど…」と発表した子が友達のアドバイスを聞いて「あ、分かった」と納得してつぶやく。このほか、友達の発言には「付け足して」「それもあるけれど」「ちょっと違うかもしれないけど」「よく分からないけど」「〜と思うんやけど」などと自分の思いを加えての発表が自然とできているのである。席の前の子が発表するときには、「みんなの方を見て言って」との声かけ。その子が少し恥ずかしそうに振り向いたときに、「がんばって」「恥ずかしいけど」と小声で励ます。
 私の心は感心と感動でいっぱいになっていった。子どもの発言は先生だけでなく友達みんなに届けている。そしてすぐさま反応が返る。教室が子どもたちが学びやすい場に育ってきていることを感じた。

 研究会では、当然「どのようにしたら、こんな子になるのか」と話題集中。授業者への質問も出た。「学び合う」子どもを育てることが研究協議のテーマである。
 授業者の先生は1学期からの経過を笑顔で語られた。その顔が楽しそうなのである。先生と子どもがまるで一緒に学習をすることを楽しんでいるように見える授業。その基礎になっている今日までの足取り、そしてその歩みを楽しそうに振り返る先生。だからこそ子どもは育つ。そう確信した。

 教育実践って何?と改めて問い直したい。教育実践には目標、計画や仮説設定はもちろん大切である。まるで羅針盤のない航海のように行き当たりばったりでも困るが、日々子どもと関わり、子どもの日々変わってゆく姿を喜びとしない実践は本物とは言えないだろう。
(大津市教育研究所・科学館)