展覧会を指導に生かす
中 嶋 芳 弘

 広島県の熊野町は、全国生産の8割を占める「筆」の産地であり、昭和6年以来、73回目の「全国書画展」の募集を行った。
 書写に限らないが、展覧会への応募や見学は、指導者や児童にとって、「作品を見る機会」「自分の指導や学びを振り返る機会」であり「書くことへの意欲づけ」である。展覧会の多くはクラスの中から選んだり、希望者を募ったりして応募させるという形になりがちで指導に生かしがたい。「全国書画展」は、書写教育の振興と保護の立場から、出品無料で全校児童が出品できる。授業の一環として取り組みやすいよう、教科書から課題が選べるようになっている。この書展に全校で応募した。

 さて、次は私の師、故三原研田先生(滋賀大学教授)1952年墨美12掲載の論考「『習字』における芸能科的色彩」からの抜粋である。時は、戦後の日本が自由主義国家としてアメリカに学び、教育もまた変わろうとしていたころである。
……手本に酷似する習字は、手本のない場合も大体そのようなものが書けるという前提のもとの練習であり清書であり、そのような手がかり参考としての手本であった筈なのに、とかく習字の為の習字になり、技術の為の技術に終って一向つまらなかった。だから応用する能力にもならなければ、いくら手本に酷似した清書が出来ても、それは手本のある時だけのはなしで、手本を離れたらもはや書けない。……
 ……児童生徒は点画万能から開放されなければならない。もっと自由に創造にのびなければならない。
 そういう指導を児等は待っている筈である。旧い硬い型にはまることを児等は意識して旧い教育でいけないとは思っていない。新しいのびのびした教育も児等は意識して、すばらしいいい指導だとは思っていないだろう。……
かくて進んできた滋賀の書教育(滋賀県書道協会ホームページ)については先の号で書いた。

 師はよく、「手本に酷似するのみを求めない」と言われた。それは、手本はいらないという意味ではなく、手本に何を見つけさせ、手本から何を学ばせるのかが大切であるということである。1年間の書写の時間の積み重ねが生きるよう、一人ひとりの子どもの書のよい点を認めつつ、文字について、子どもに考えさせたり、教えたりしていきたいものである。さて、書展の審査結果を見ると、ただ形のよいものではなく、線質や筆使いのしっかりとした作品がよいとされており、私の評価と重なるところが多かった。
(彦根市立河瀬小)