巻頭言
天 皇 と 村 人
宇 野 日 出 生

 京都で学芸員として仕事をするようになって、二十余年が過ぎた。随分と様々な調査もやってきた。何分京都という土地柄、驚くことも多かったが、なかでも驚愕に値する話を紹介し、そこから「天皇と村人」における昔と今について述べてみたい。

 京都市左京区に八瀬という地域がある。八瀬の住民は、古くから八瀬童子と呼ばれていた。童子とは寺院のもとにおいて実務労働を負担した人達のことを意味した。八瀬の人々も古代から比叡山延暦寺と深い関わりを有し、八瀬童子と呼ばれる一集団として活躍した。八瀬の集落は、平安時代中頃より村落自治の発達が確認され、南北朝時代には後醍醐天皇の村落通過時に童子たちが天皇に供奉し、褒美として国名(くにな)を名乗ることが許された。以降、歴代天皇・室町幕府・織田信長・京都所司代などから諸役免除の特権を与えられた。

 江戸時代には延暦寺と山門領域の結界改めをめぐって大争論を起こした。結果、江戸幕府から特別措置として八瀬村内の領地を全て禁裏御領とし、諸役も全て免除とした。八瀬童子たちは歓喜し、かかる一件を顕彰するため赦免地踊りを催した。現在この祭りは京都市無形民俗文化財となって残っている。

 そして時代は明治を迎えた。前近代まで連綿と諸役免除を受けていた八瀬童子は、明治政府にも必死に訴えた。その甲斐あって、租税は一旦京都府庁に納税し、その都度該当金が宮内省から下付された。条件として、村内地券の売買禁止と宮内省へ輿丁(よちょう)として出仕することが決められた。八瀬童子が明治以降、天皇の大喪や大礼に駕輿丁として奉仕するようになったのも、かかる宮内省との新たな関係に依拠している。かくして八瀬童子に限っては、終戦に至るまで租税は免除され続けたのであった。

 以上述べてきたことは、全て八瀬童子会文書の調査と同文書の史料集を編纂するなかでわかったことであった。八瀬童子は、今も皇室との関わりを大変誇りとしている。戦後のイデオロギーなどを遙かに越えたところで、人々は大きな精神的紐帯を有している。赦免地踊りは、小学校行事にも組み入れられ、小学校が地域活動の拠点となっている。地域の歩みなどを幼少の頃から自然体で受け入れることのできる貴重な例証を、八瀬にみることができるのである。
(京都市歴史資料館主任研究員)