巻頭言
語 る こ と を 再 考 す る
今 宮 信 吾

 地方の民話をCDによる語りで再現する月刊誌が発刊された。子どもたちにつけたい言葉のカとしての「語り」について日頃から興味を持っている私にとっては、機を得たりという思いである。聴(聞)くことの大切さは常に言われながらも、なかなか聴ける子どもたちが育っているとはいいがたい。総合的な学習の時間の登場で、子どもたちが自己表現できる力を国語科に求められているに思える。しかし、プレゼンテーション能力を主張しすぎると聴ける子どもは少なくなる。全員が発信者になってしまうからである。

 社会的な要因も大きい、駅などで必要以上に電子音や案内の放送がある。私の近所の駅も「ただいま混雑しています。押し合わないように階段をお降りください」というおせっかい極まりない放送が機械的に流れている。相手の状況を考えずに流れる音(声)は音環境の問題と合わさって聴ける子どもを育てない。
 また私を含めた教師側の問題として、教師の語りの貧弱さもあるだろう。教師自身が魅力的な内容や聴きたくなるような声で子どもたちに語っていないのである。子どもたちの人と人としてのつながりをより密にしていきたいと思う。そのために生の声で聴くことのここちよさについてはこれからも学校からなくしていってはいけないと思う。

 ある国語の授業の一場面である。「先生、おもいでってどっちの漢字が正しいの」という質問を受けて私なりの解釈や使い方を語った。決してよい語り口ではなかったが子どもたちとよい時間が持てたと自己満足できた瞬間である。
「漢字の意味からいうと思うの方は脳みそを示す田があるから頭の中で思うことです。想の方は省みるという意味も含まれているので心で思うということになります。先生は、自分だけでそっと思っていることやものなどに対するおもいでの時には、思を使い、相手がいる人とのおもいでの時には想を使います。」
 真剣に聴いている。ふだん漢字に興味が持てない子ほど目が輝いている。学ぶということは何なのかということを考える時である。

 また、「語り」の授業をいくつか試みてみている。どんなカがついたのか、子どもたちに変化があったのかと問われても的確な答えは見いだせない。ただ言えることは、文字で自分を表現することが得意な子はおおむね、この語りの授業ではとまどいを見せるということである。文字と声では同じ日本語による表現でも違いがあるという当たり前のことに気づく。声による表現には、必ず身体が伴ってくる。そこが「語り」の授業を試みる楽しさである。一つの質問から一つの言葉から広がる世界、声の持つ身体性については、これからも大事にして、子どもたちに語っていきたいと思う。
(神戸大学発達科学部附属住吉小学校)