巻頭言
お 話 、声 を 嗄 ら す
井 上 敏 夫

 滋賀県へは、時々お伺いした思い出があるが、私にとって最も強烈なのは、昭和五一年秋、私どもの学会「全国大学国語教育学会」が滋賀大学で行われ、それに引き続いて開かれた「全日本国語教育研究大会」に関連した思い出である。この会の二日目の講演者として瀬戸内寂聴氏を迎え、その高話を拝聴した時の印象である。

 瀬戸内氏の書かれたものについては、それ以前もぽつぽつ拝見しており、氏がその二、三年前、平泉で得度されたことも承知していた。現に、当日はくりくり頭、袈裟、全くの僧侶姿で壇上に立たれ、諄々として所信を説き進められた。
 おそらく、初め、多少の違和感をいだきつつも聞いていた会衆たちは、やがて寂聴氏の所論に共感し、それまでの瀬戸内晴美観を一変させられたことであろうと思われた。
 私も、その一人であった。この瀬戸内氏の「人生いかに生くべきか」という論旨、その具体的実践、それに対する聴者の感想など、私はどうしても親しい仲間たちに伝えずにはいられないという気持ちにさせられた。

 会を終え、大学にもどって最初の専攻学生への講義のとき、私は講義の時間を十五分ほど早くすませ、残りの時間で、前記寂聴氏講演の紹介とそれへの感想を語ることにした。こんな試みは初めてだったように思う。
 ところが、大学で講義するようになって、一層、「初めて」だというべきことが起こってしまった。
 研究室へもどった私の咽喉からは、音声がほとんど出なくなってしまっていたのである。私は、話す前の講義の時と、特別喋り方を変えたつもりはない。声の大きさも高さも、同じ調子で喋ったつもりである。それなのに、生理的には明らかに変化が生じてしまっている。

 もっとも、私は少年時代から、自分は少し声帯が弱いかなという感じは持っていた。
 小学校五、六年の頃、皆で少しずつお小遣いを出しあって、雑誌等を共同購入していたが、毎月お待ちかねの「少年倶楽部」などが届くと、私は休み時間に皆から、「日米未来戦」などという連載を音読せよ、と迫られることになる。
 そんなことが少し続いたりすると、声が嗄れて出なくなる、ということが時おりあった。声帯の弱さは自前である、と言うべきであろう。

 それにしても、教壇に立つようになって、こんな体験は、例の無かったところ、自分では意識しないながら、寂聴講話への共感度が、自ら声調を変化させてしまったのかと自省させられた次第であった。
(埼玉大学名誉教授)