巻頭言
朝 の 読 書
倉 光 信 一 郎

 今、朝の読書が広がっている。

 2001年10月30日の朝日新聞に、作家の田辺聖子氏が、「字まみれ」ということで、朝の読書にふれている。実は、「字まみれ」と書いたのは、私が教えた3年生の女の子だった。その子は、年度末に一年を振り返って、「さいしょは、絵ばっかりの本を読んでいたわたしが字まみれでおおってある本を読み出したんです。」と書いた。
 田辺氏は、「字まみれという表現は凄い。この子は字の洪水にたじろがなくなり、次いで親しみを持ってしまったのだ。」と書いている。田辺氏のみならず、大人が「読書なんか・・・」と思わずにいられない3年生のギャングエイジの子供たち。運動が大好きなT子は、「さいしょは本がきらいで、先生に、朝自習は読書にします、といわれて、やだなあー、と思っていました。でも、本が、おにごっこよりも、たかおによりも、タイヤとびよりもすきになりました。今、一番すきなことは、読書です。」と書いていた。この事実。朝の読書はそれだけの価値がある。

 3年生のI子は、クラスで最も言語能力の発達が遅れていた。この子が、朝の読書の時間に、「大きなシャボン玉」という本を読んでいた。そして、「わたしはりかの本およんでシボン玉のつくりかたややりかたをずいぶんはかてきました。(書いたまま)」というミニ感想文を書いた。もし、国語の教科書に「大きなシャボン玉」という説明文があり、感想をこの子に書かせようとしても、一行も書けなかっただろう。自分で選んだ本を自分の力で読んだからこそ、感想を書いたのだ。ここに、朝の読書のすばらしさがある。

 3年生のE男もまた、特に言語能力が低かった。この子が図書室から借りた本は、1学期も2学期も0冊だった。1月のある日、朝の読書の時間が終わっても、この子は本を読むのをやめようとしなかった。時間を忘れて夢中で読んでいたのだった。その本は、何年か前の中学年の課題図書だった。字がいっぱい書いてある本だった。朝の読書をしていなければ、この子は教師から「学力が低い」「本を読む力もかなり低い。だから図書室で本を借りない」という判断を下されていただろう。

 朝の読書は、子どもたちの新しい一面を発見する場でもある。
(米子市立河崎小学校)